■2024年12月29日(日)
■1878年(明治11)年5月から7ヶ月間、日本列島の東北地方から北海道、京都・伊勢方面を旅した英国人女性のイザベラ・ルーシー・バード。その行程を『日本奥地紀行』として著した。日本人通訳の伊藤鶴吉が道案内で同行した。金坂清則『完訳 日本奥地紀行1』(平凡社、2012年)により紹介する。
「第15報(結)高度な農業」の項目で、現在の栃木県から山王峠を経て福島県会津に到着している。乗り物は馬である。会津田島で川を船で渡っている。
荒海川[大川]という大きな川までやってきた。田の畦(あぜ)には大豆がずっと植えられていた。ここに出るまで私たちは2日にわたってその支流[荒海川]をとぼぼとと進んできたのである。そして、汚い身なりをして仕事にいそしむ人々であふれる、これまた汚い村々を通り抜けたのち、この川を平底船で渡った。川の両岸には高い杭がしっかりと打ち込まれ、数本の藤の蔓(つる)を編んで作った太い綱が結わえてあった。一人の男が両手でこの綱をたぐり、猛一人が船尾で竿(さお)を操り、あとは速い流れに委ねるのである。この後も私たちはこのようにしていくつもの川を渡った。どの渡し場にも、有料の橋と同じように料金を書いた立て札があり、一人の男が小屋に座って金を受け取るようになっていた。
普通の太索(ふとづな)よりももっと強い強度と耐久性が求められるところで広く使われている藤は、どこにでもあるようである。矮性(わいせい)のものは山や道端にかぶさるように生えているが、攻撃性に富む<蔓植物(リアナ)>はどんなに高い木にも這い上っていき、時にはそれを容赦なく締め付け枯死させ、枯れ枝のうえに誠に美しく咲き乱れたりする。
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大内から会津高田、会津坂下に向かい、只見川の舟橋を渡り片門に入る。阿賀野川と表現している。津川から舟に乗り新潟へ。
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幅の広い阿賀野川に架かった橋は実に立派だった。その対照には驚いた。この橋[舟橋]は12艘の平底の廃船でできており、各船が藤[の蔓]を編んで作った強靱な1本の綱で固定されている。その綱が両岸で結ばれている位置は非常に高い。そのため廃船とその上に渡した厚板の橋は、水位が12フィート[3.7メートル]上下しても通行できるのである。
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その後、現在の新潟県の津川から新潟までは船に乗っている。7月4日。午前8時。
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「定期船」は造りのしっかりした舟で、長さが45フィート[13.5メートル]、幅が6フィート[1.8メートル]あり、一人の男が船尾で艫櫂(ともがい)を使って漕ぐ一方、もう一人の男が幅広の水かきをもって櫂(かい)を漕いで進んだ。その櫂は舳先(へさき)に取り付けた藤綱の留め具の中で動く。またこの櫂には長さ18インチ[約45センチ]ほどの小槌の柄が付いていて水をはじくようになり、1回かく度に左右に動く仕掛けになっている。
(略)この旅は「津川の急流下り」と言われている。(略)
うっとりするような風景が12マイル[19キロ]にわたって続いた急流下りが終わると、津川川[阿賀野川]は、川幅の広い水量豊かな流れとなって木立の多いほとんど真っ平らな農村地帯を大きくうねるように流れた。背後が雪をかぶる山々によって画されているところもあった。川面
に展開する活動は、見ていてとても心地よかった。多くの丸木舟が野菜や小麦を積んだり、学校から家路につく少年少女を乗せたりしながら行き交っていた。白帆をたたみ12艘が一体となって水深の深い川をゆっくりと進んでいったり、陽気に大声をかけあう船頭にひかれて浅瀬を進んでいく平底舟(サンバン)の姿もあった。(略)
午後3時には新潟の町外れに(略)。
私たちの乗った舟は産物や製品の輸送路になっているたくさんの掘の一つを、何百という荷舟の間を縫いながら棹を使って進む、町の真ん中で上陸した。
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■未来社が1984年10月30日に、旅人たちの歴史3『古川古松軒/イザベラ・バード』を発刊した。私は購入し1985年12月21日に読了している。 → 古川古松軒、イザベラバード