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1742年(寛保2)『老媼茶話』の只見川毒流し 1611年(慶長16)413年前のこと

 ■2024年12月29日(日)



■盛口満『魚毒植物』(南方新社、2022年)

 柳田國男の手になる「魚王行乞譚」(『定本柳田國男集第5巻』筑摩書房、1968年)に、そうした例を見ることができる。柳田が紹介している例の一つは、1742年(寛保2)の序文のある「老媼茶話」という書に載っている会津地方の伝承である。


 慶長16年(1611)のこと。殿様が只見川で毒流しを試み、領内の百姓に命じて、「柿澁韮山椒(カキしぶ、ニラ、サンショウ)の皮」をついたものを家から差し出させた。そのとき、藤という山里へ、夕刻になって旅の僧が宿を求めてやってきて、僧は宿の主を呼んで、毒流しのことを語りだした。

 「命を惜しまないものはない。ところが明日、この川に毒流しがなされるということである。これはいったい、何の益があることか。その筋に申し上げて止めていただけないか。それこそ、大きな善行である。魚やカメの死骸を見たとしても殿様のお慰みにもならないだろうに、本当に必要のないことをされる」と深く嘆いた。

 宿の主人も僧の志に感じ入り、また話ももっともなことだと思いながら、「もはや毒流しも明日のことであるうえ、私のようないやしきものが申しあげてもお取り上げ下さることはないでしょう。先だってはご家老たちもお諫めになったものの、ご承知されなかったと聞いております」と答え、「貧乏で何も差し上げるものがありませんが、こんな物でよろしければ召し上がり下さい」といって、柏の葉に粟飯(あわめし)を盛って、僧をもてなした。

 夜が明けると、僧は愁いを帯びた風情で立ち去った。村ではいよいよ、用意した毒を運び、それを川上から流し込む。すると無数の魚が、ふらふらと水面に浮かび上がる中に、長さ1丈4,5尺の大鰻が一匹出てきて捕獲された。その鰻の腹があまりに大きいので、皆が怪しみ腹を割いてみると、中から粟飯がでてきた。そこで、宿の主人が昨晩のことを仔細に語り、僧に化けていたのは、この大鰻であったかということになった。




■→ 2012年4月19日 (木)老媼(ろうおう)茶話(さわ):福島県立博物館木曜の広場

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 → 2022年6月