我が家は山間に東向き玄関で建っている。家のすぐ前には河川が北流している。滝谷川で上流域にあり、柳津町で只見川(かつて赤川・阿賀川、現在大川が阿賀川呼称に改称されている・高橋明さんの論文)に合流し新潟から日本海に注ぐ。かつて会津・越後はこの川をはじめ多くの峯越の峠で繋がっていた。標高730m。
河川ではカジカガエルが数日前から鳴き始め、夜も鳴き続けているが、丑三つ時の一瞬は鳴かない。
昨日夕方、30年前の営利切り花のへレニウム(キク科、北米原産)の古株を譲っていただいた御礼に草花苗等を持参して下流の隣村の境ノ沢に行った。当地大岐ohmataにも、境ノ沢と呼ぶ圃場があるが、これは昭和村と柳津町を分かつ博士山西麓を西流する「さかいのさわ」に由来する。
こちらは大沼郡、あちらは河沼郡で郡境となっている。
訪問先はヨリガネ先生の家。先生はゆでたタケノコを皿に載せて、その薄い皮をむいていた。今日裏山で採ったのだという。いっしょにゼンマイも。
先生は猪苗代湖の南端の湖南町の出身で、教職となり、赴任した昭和村で、境ノ沢で切り花生産をしていた奥様と結婚して、ここから転勤先の各町村で教師としていたが、退職後は自宅の境ノ沢にて暮らしている。
先生の湖南町の姉の家裏に植えてあったへレニウムを奥様が一株(2種、黄色と赤)を持ち帰り、境ノ沢の圃場に分株し、主に、名古屋花きに出荷していた。その後、かすみ草等の栽培をされ、現在は離農されている。
昨年からこれまで栽培されてきた名残の草花(多年草)を、耕作を止めた圃場に多種移植されている。
最初にリンドウ栽培、アスター等の栽培ではじめていて、リンドウも7月末に開花したものを移植された、と語っていた。秋はクジャクソウ、、、それは耐病性の品種を持っている隣村、奈良布の土手にあるものを所有者に言って譲られて移植、、、、
からむし(苧)もそうであったが、生活を支えた(それは営利作物として、あるいは精神文化を支える植物として、、、)ものを、放棄・廃棄したりはしない。
どこか、庭の隅か、山際の畑の隅(はたいんきょ・畑隠居)、山の畑か、、、、必ず、自分が育てていた植物は残す、、、、これは「やとう」という。「やとっておく」のだ。
南米のフィールドを歩いた人類生態学者(医療)の鈴木継美(つぐよし)先生が、からむし(苧)の調査で来村され、佐藤孝雄氏が管理していた『じねんと塾』で、わたしたちと議論した際に、
地球上の人類は、一時期に自分たちを支えた植物については、根絶やしにせず、必ず、再登場する時代が来るので、根株や種子を保全・保管しておく、、、、単作・モノカルチャーの時代はつい最近の出来事で、ひとつの品目でも多種を維持し、来る気候変動に耐える仕組みを持っていた、、、、
と語っている。
→ 鈴木つぐよし先生
東京大学で教鞭を執られていた鈴木先生は、残念ながら亡くなられたが、いつも私は思い出す。それは「やとう(保全)」という行為は人類の基層文化である、ということだ。
3月から奥会津の全集落を歩くプロジェクトを開始していて、思うのは、庭に植えられた植物、、、花を咲かせる植物の共通性である。それは季節時計として、気候変動を植物の開花日で推し量ること、また、「花を愛(め)でる」という行為の文化性は、季節とともにあることを意味する。
毎日、庭で成長する草花・樹木。成長は開花後も結実となり、とき(季節)を知らせる。ゆったりして変化に気づかないようで、実は、季節のめぐりを豊かに暮らしのなかに導入する役割を果たしている。
ヨリガネ先生の奥様の、とみ子姉(本来の敬称は目上の人には姉・兄を付ける)は、調理した取り立ての山菜を一寸皿に出して、茶をすすめ次のように語った。
「私は、花を栽培して出荷して来て、いまは営利生産には関わっていないけど、街の花生け教室で花飾りを習っていたときに、冬なのに夏の花、、、、夏なのに冬の花、、、、それをあつかうのにはとても違和感があった。ここではかすみ草は7月の花、、、季咲き、、、なのに、雪のある3月に花生け教室で花材として出るととても、へんな感じがした」
昨年(2019年)6月下旬、水野澄人さんが来村された際に、滝谷川と我が家の間にある小さな庭の隅に、うすい青の「都忘れ」が咲いていた。自動車を停める庭にもなっていて、、、
それに気づいて、「春の花と思っていたけど、昭和村ではいま咲くのですね。きれいだな」と発話した。それは、独り言だった。
水野さんは昭和花き研究会(1984~2015年)の花を、名古屋花きにいて、奥会津で生産された私たちの草花類を、京都生花の近藤和博さんとともに、よく売ってくれていた人である。石川県生まれで京都の生け花向け仲卸で働き、名古屋花き、大田花き、そして現在首都圏の生花小売店で仕入れを担当されている。
近年、水野さんは、「きざきのかち(季節咲きの価値)」を消費者が求めていて、それをどのように供給するのか、、、課題を抱えている。なぜなら、その花がその土地で本来開花する時期に、花は無いからである。花は季節を伝える。その意味を復元する、、、ことが仕入れの課題になっている。そのため樹木(枝物)の季節感を家庭に届けようと、枝物産地も多く訪問されている。
枝物(えだもの)は季節感、、、、露地草花も季節感、、、、これが消費者が求めていること、、、それには同意する。
水野さんの勤めている小売店は、冬にヒマワリを売るのを止めている。一年中、ヒマワリが出回るようになり、懸念しているからだ。
そうした話を、とみ子姉とヨリガネ先生に私は、話した。とみ子姉は名古屋花きにへレニウムを出荷していて水野さんのことはよく知っている。取引会議(春秋)には必ず来て、圃場を歩き、生産者たちと話し合ってきた。
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5月12日午後4時、、、自宅でJFMA(日本フローラルマーケティング協会)の理事会にインターネット回線で参加した。自画像をウェブカメラで撮影し会議参加者20余名の顔が画面に分割して映っている。
日本各地に役員(理事)がいて、月1回・都内の法政大の会議室等で会議をしているので、面識ある人たちで、花の業界を支える社長等(種苗・輸出入・大学・卸・小売店)で、私は20年間、生産者として参加している。
日本においては1月末からはじまった新型感染症の拡大、、、、非常事態宣言、、、、による大きな経済活動の制限・その変化対応について、現場の声が多く聞かされた。
5月10日の今年の母の日の店頭販売の様子、、、、5月を母の月として3密を避けるプロモーションの提案等の効果などを聞いた。
外出を避ける、、、、会社・工場が休業し家庭で多くの時間を過ごす、、、、こうした社会変化で、「鉢花」はとても良く売れている、、、という。荷受け会社(大卸)でも、鉢物・苗物類は前年比でもよく売れているという。
一方で、切り花、、、、産地の出荷制限、、、航空路の断絶等による海外産切り花の入荷減少、、、自宅に1週間から1月も長く暮らすと「命の短い切り花よりも、鑑賞後、庭に地植えできる鉢花の価値」「野菜を育てる人が急に増えて(インターネット動画で詳細な育て方が知れる)プランター等で育てる、、、花苗も爆発的に売れている、、、、
これは会津盆地の量販店(ホームセンター、植物苗の小売業)で駐車場が満杯になっていることでも確認できるが、日本国内共通している、、、
消費の変動が起きている。
一方で、切り花のみ低迷しているものをどのように考えるのか、、、について、
JFMA顧問の京都大学農学部・大学院の土井元章先生(かすみ草研究者)は、今回のクラウドミーティングで、
→ 松島義幸さん(JFMA事務局)の報告でも確認できるように、
今年はコロナ禍で大変だったが、今まで母の日に合わせてカーネーションの開花を揃える。輸入にも頼ってきた。母の月と言うように消費の分散が図れると生産者側も作業が平準化し、品質管理もしっかりできて悪いものを出さないと言うことで良いのではないかと発言される。
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■5月12日に父を会津若松市内の病院通院、農業関係の買い物(故障した水中ポンプ、野菜苗等)して帰宅してみると、ゆうパックで1冊の本が届いていた。
東邦大学におられ退官された成田市在住の鳥類研究者・長谷川博先生の著作で、先生から送本されてきた。
先生はアホウドリの研究と復活に人生をかけている。当地の博士山のイヌワシ保護の問題(1984年~2000年)のときも、会津田島の長野の故・谷口明朗老師の要請で、来山・調査に参加されている。
近代、人間が羽毛採取のために棒で叩いて殺し絶滅に追いやった大型鳥類のオキノタユウ。人慣れして逃げず、簡単に打殺できるので「あほうどり」と呼ばれた。
それをもとの呼び名、ゆったりと沖合をグライダーのように飛翔する「沖の太夫」に戻す運動もされている。
本の礼状を書かなくてはならない。
長谷川博『アホウドリからオキノタユウへ』(新日本出版社、2020年4月30日初版、1500円)
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■人間による地球上の生物(動植物・微生物)への過度な関与による絶滅、、、、一方、今回の新型感染症による、人類そのものの生存が継続できないことへの恐怖(もっともウィルスは寄生宿主が死滅すれば生存できない)。
植物、草花、樹木をどのように暮らしに生かしているのか、、、、基層文化にみる人類のあり方、、、、
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「経済原則をはずして、社会現象を見る」と本質が見えるとするヤフーから慶応大に移られた安宅和人先生の「かいそ(開疎)」という概念、、、、具体的にはアニメーション作家の宮崎駿の『風の谷』を想定、、、、
そういえば赤坂憲雄さんも学習院大学で宮崎駿の『風の谷のナウシカ』をテキストとして、『ナウシカ考 風の谷の黙示録』(岩波書店、2019年11月刊)を書かれている。
自分の立場を超えて社会を観察し、考える、、、、これはとてもたいせつな考え方で、そのうえで、自分の事業と今後のことを考える、、、、
■5月12日午後3時30分ころ、柳津町から過去に書いた原稿への内容確認・照会の電話がある。
2016年9月に会津若松の歴史春秋出版が企画し刊行された『柳津町』、、、ムック本、、、半年かけて柳津町の村を歩いて取材し2編を寄稿した(編者の佐々木長生先生から指示があった)。
そのなかの江戸時代の宮崎県の山伏・野田泉光院の会津柳津巡礼(虚空蔵)についてであった。
私は、ムック本の企画会議で佐々木先生から出席するよう言われて参加して、わかっていることを他本から引用して書きたくない、、、、現地調査と新たな事実の文献調査をして、、、新しい事実を知ってもらう、、、、ということで、福島県立博物館で館長の赤坂憲雄さんと佐々木先生が対談した際に、柳津虚空蔵尊を野田泉光院が訪ねたことを提案し自ら書くことになった。旅費は当然出ないのだが、後日、2017年1月20日、高千穂町で世界農業遺産の公開講演会がある際に、宮崎県の佐土原町の野田泉光院の遺跡も現地調査をした。
→ 宮崎県調査2017年1月 野田泉光院の墓地
■本文を書いていたら始業時間の午前4時30分を超えて5時になっている。境ノ沢圃場にへレニウムの補植、、、昨日に追加で1株譲り受けた、、、、をれを朝食前に、分根して植える。雨が上がっている。