プロフィール

05/23金、もじりあみ、魚捕り網を作る

 ■2025年5月23日(金)雨の日の翌日で、曇りの朝

・アカショウビン、ホトトギスが盛んに鳴く。


・午前4時30分から、大田(下)のかすみ草栽培用のパイプハウス建て作業(継続)。岩下(上)3棟に施肥。


・午前9時、会津田島。明日夕方か日曜日の朝、坂下等、ソロPF苗配布。


松山誠さんのFBの、AI相談対話のなかで、海外の花産業の事例をよく聞いている。いわゆる近代の文化の細部、本邦の生け花が与えた影響などが、記されている。またミクシイが表出したものがスレッズであるという指摘も、その通りだと思った。

 AIとは、Artificial Intelligence(人工知能)の略


・5月20日に、小院瀬見・福光温泉、からむし植えワークショップでお会いした西井満理さんから連絡があった。「木を抜く女」読みましたと。


・塩川町の芳賀英一さんから連絡があり、来週はじめの夕方に訪問し、原稿を受領する予定(データ)。5月26日(月)か27日(火)。


・『昭和村の歴史』(昭和村役場、1973年)151ページ。発電事業の開始・家に電燈がともる、玉川水力電気株式会社は大正12年(1923)から小野川地区を除く大芦、野尻村(合併前)全域に送電を開始とある。昭和4年、昭電社と改称、さらに昭和14年(1939)に国家統制のなかで新潟電力に合併された、とある。

 居間に1灯、料金は16燭光で60銭。

 先の下中津川上平の和孝さんの話では10軒のうち4軒は電燈をひくことができなかった、という。経済的な理由から、である。むらなかにすべて電気が引かれたのではないことは、たいへんに重要な事実である。


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(以下転載はご遠慮ください)


水野さんの報告の「あやべたけ」ayabe-take
機織りで実際に使われた道具



■ 捩り網(もじりあみ)のサカナトリ網について


 2025年5月12日、昭和村佐倉のからむし工芸博物館で、根本祟範さん、小林美夏

さんと7月からの「奥会津の川」展の打ち合わせをした。終了後、同館にて、水野江梨さんから以前見せた笹茎を曲げた物はアヤベタケで、幅の広い方は捩り織用でサカナトリ網にしたものではないかといわれる。たいへん興味深いので水野さんの2024年にまとめた報告書をお借りした。川での網を自製するのに必要な技術なので、以下に本人の同意を得て紹介する。水野さんによる記録である。


 昭和村下中津川上平の舟木セツさん(昭和10年生)の家の蔵の中に古い地機道具と共に残っていた、笹の茎を曲げただけの簡素な道具、2点(写真)があった。

 形状からアヤベタケではないか?と推察し、2024年の地機学習会ではこれを使って糸綜絖を作る。

 今回は捩り織に挑戦するので、まず始めに幅が狭い方(10cm位)でやってみたが、糸綜絖の長さが足りず開口がきつくなり開きずらかったため、広い方(15cm位)でやり直したところ上手くいった。このことから、幅の狭い方は通常の織り用、広い方は捩り用として使用していたと考えられた。

 使ってみると、カケイト掛けすること自体に問題はないが、現在使われている竹製のアヤベタケのように棒状に戻すことができないので、糸綜絖を作った後、この形状のまま別の棒に入れ替える必要があり、とても苦労した。しかし、何度か失敗するうちに慣れた。

 他の産地では、棒状に戻したアヤベタケを抜かず、そのまま吊るして使用するようなので、何故昭和村ではわざわざアヤベタケを他の丸棒に入れ替えるのか不思議に思っていたが、元々はこの簡素なアヤベタケを使用していたのだとしたら、吊るす棒は他に必要なので納得がいく。


 その後、昭和村大芦の五十嵐カヨ子さん(大正14年生、99才)に確認したところ、やはりこれはアヤベタケとの回答を得た。かつてお姑さんが使っていて、自分でも今も使っているそうである。カヨ子さんは捩り織はしたことがないそうで、幅の広い方が捩り用であるとの確認は出来なかったが、幅の狭い方は通常の織りをする時に使ったそうで、この時の幅の目安は握り拳一つ分とのことである。素材はカヤでもヨシでも何でもよく、わざわざ山に行って竹を採ってくるのは大変なので、手頃なもので間に合わせたのだろう、とのこと。

 雪深い昭和村では竹は入手しづらいので、竹製のアヤベタケが普及する以前はこうした身近に採取できる素材を利用したと思われる。

 そして、棒状に戻すことができる便利な竹製のアヤベタケが普及した後も、別の棒に替える行為だけは習慣として残ったのだとすれば、元々はこちらを使うのが一般的だったのではないだろうか?


 昭和村下中津川上平の舟木セツさんが昔績んだというからむしの績み苧を経糸に、下中津川気多渕の栗城キチコさんが自分でからむし引きした手がらみを緯糸に績み、かつて昭和村で雑魚捕り用の網に使ったという捩り織に挑戦する。栗城キチコさん(昭和5年生、94才)は、昭和村大芦のカヨ子さんの妹。

 岩手雫石の亀甲織をやってみたかったので、観音紗(左右反対方向に捩じる)とする。

 頂いたセツさんのネジッコ2つ分を糸車で撚りかけするが、繋ぎ目が全部スルスルと外れてしまう為大変苦労し、色々工夫して最終的に糸はテンションをかけないように手の平でそっと持って錘へと送り出すようにし、繋ぎ目を留める為に紡ぐようにしながら撚りかけしたので、かなりの強撚糸になってしまった。一体どうしてこんなにも抜けてしまうのだろうか?

 元々昭和村の糸づくりはヲ(精麻)だったので、ヲの績み方でからむしを績んだ為に抜けやすいのでは?と思った。ヲは糸にする前に糠で煮た後揉んで床に打つと解されてソバージュのように柔らかい繊維になる。

 以前栗城ナミ子さんのヲ績みを見せてもらったとき、軽く撚ってやれば簡単に繋がるほどにグスグスに繊維が解されていて、これは績んでいる最中に細かい屑が出て掃除が大変そうだなと思ったが、硬いからむしの繊維に比べると大変繋ぎやすそうであり、ヲは績みやすかったと他の姐さま方も言っていたことを思い出した。


 キチコさんは結婚前の若い頃に野尻の人に機織りを習い、一度だけドジョウ捕り用の網にする捩りと12尋のスキンノウを織ったことがあるそうだ。

 ドジョウ捕り網の形状は布の一片を縫って、細い竹を弓状にしたところに取り付けたもの。これを田んぼに仕掛ける。

 二人いれば、追い込み役と網を仕掛けて隙間から逃げられないようにする役で分けらて便利だが、一人でも足で追い込むことはできる。

 キチコさんはドジョウが好きで「オレは一人でも捕りに行った」そうだ。

 できれば、その捕り網の民具再現まで試み、それで実際にドジョウや雑魚を捕るところまでやってみたかったのだが、今回の糸が太すぎたため網目が大きくなり、これではドジョウに逃げられてしまいそうなので諦めた。次回はもっと細い糸で挑戦しよう。

 参考品としては、昭和村小野川分校の収蔵民具に野尻の小林盛雄さんが寄贈されたものと、下中津川新田の本名ハルノさん宅にお姑さんが織ったというものをハルノさんが暖簾に仕立てたものがある。