東川(ひがしかわ、河沼郡柳津町高森)2600文字
嶽の山(たけのやま、1037m)の東麓を源流とする東川。東北麓の標高650mに高森集落がある。南から北に東川は流れ、湯八木沢で滝谷川と合流する。
訪問した2025年4月1日午後は、標高730mの昭和村大岐は雪、滝谷川沿いに県道を下ると柳津町西山地区は雨。五畳敷から牧沢、鳥屋、四ッ谷と呼ばれる中屋敷、遅越戸、沢中までは雨だったが、最源流の集落・高森は雪だった。前年は春の雪解け時に、高森の北の道路が崩れ、11月末まで全面通行止めになっていた。林道を博士山登山口経由で大成沢、あるいは琵琶首の南側に出るか、会津高田の冑(かぶと)に出ることを強いられた。たいへん不便だった、という。
かつては学校だった場所には高森の集会所が新築され、その南の圃場には大きな携帯電話の中継塔が建っている。その付近の除雪され道幅が広くなっているところに、私は運転している軽乗用車を停車した。集会所前では、町営バスなどがユーターンすることが奥会津地域では共通しており、ここの空き地には停車をすることができない。
高森に生まれ暮らしている、これまで幾度も訪ね生活の話をうかがっている菊地進さん(昭和14年生)・静枝さん(昭和8年生)宅の前の坂道はきれいに雪が除けられていた。家のある後背地の嶽の山のなかから黒い硬質のプラスティックのホースで、湧水を自力で引いておられ(山水道)、それを冬期間はコンクリートを打った坂道に流して消雪されている。夏は冷たく、冬は暖かい湧水の山水道は、家の前の池に落水させ、盛夏の旧盆に親族が集まり急に大家族になったとき、瓶ビールや野菜を冷やすのにたいへん役立っている、と語られる。
この日、坂道の右側の小屋の軒下には先のとがった剣スコップと、地竹の輪にプラスティックの白いヒモを亀甲に渡した手製のカンジキが下げてあった。
玄関には、広葉樹の細い枝で手製した先が二股に分かれた杖が立てかけてあった。サッシの戸を開けると、なかには同様の杖が3本、靴を並べた場所に1本あった。
5年前、2020年12月に訪問したときには、こうした木の杖はなかった(菅家洋子「日々を照らすもの」『別冊会津学2号』会津学研究会・奥会津書房、2022年、272ページ)。
「こんにちは-」と大きな声を出して外玄関の戸を開けた。口鼻に白いマスクを着用しているので、こもった声になっている。2020年の新型感染症の世界流行からマスク着用が訪問時のルールになっている。
ちょうど、静枝さんが玄関を入って左側の大きな黒板にチョークで予定を書いているところだった。訪問から5年間の時間が経っているのに静枝さんはすぐに私たちを認識された。
「本を送ってもらってありがとう」「なかに入らっしぇ」と言われた。
内戸を開け「じいちゃん、大岐の菅家さんたち、来たぞ」と告げた。高齢の二人暮らしである。静枝さんは週1回、柳津町中心部にデイサービス送迎車に乗って通っている。
ご主人の進さんは、こたつの右手の横座におられるが、この日は入ってすぐの客が座る場所にいて「アンパンマン」を紹介するNHKテレビを見ておられた。前日の月曜から朝8時の連続ドラマは、やなせたかし伝(アンパンマンの作者)であった。手には「当用日記」を持っておられた。日々のことを詳しく記録されている様子であった。
進さんは右手の横座に移られ、静枝さんは左手に座られ、私たちはこたつの客座に座り、いろいろと話を聞いた。ノートを広げたこたつの上には、ヒコ(ひ孫)二人のカラー写真が額に入り立ててあった。福島県内にいる、という。いつも眺めている。
聞きたい話を聞く前には、この冬をどのように過ごし、春を迎えたか、前段の話がある。静枝さんは例年になく大雪で難儀した、と語った。一日に50センチもの降雪など最近経験していないという。でも裏のハヤシから引いたシミズがあっから家の前の雪始末はラクだった、という。
進さんは、居間のあかりとりの窓はトタン屋根から落ちる雪ですぐに埋まる。例年だと自家用のユンボ(バックホー)で2回ほど雪かたしをすればよいのだが、この冬は4回やった、という。今日も高森は雪だが、下の牧沢などは雨だから。高森が雪になっていると思う人は少なくて、町の除雪ブルドーザが高森に上がって来なくて、道路除雪が遅れることもある。でもよく除雪してくれていて、柳津や坂下に買い物・用足しに真冬でも出かけられるから助かっている、という。
田畑にはまだ150センチの雪があるといい、私は「大岐も同じです」と応えた。
「なんぼ雪降っても、春は来る」と言われた。
「今日は、川と暮らしについて話を聞かせてください」と私が用件を切り出すと、進さんがいろいろと語ってくださる。
いまの集会所のところには分校があって、その裏手から川に降りる道がある。夏は、皆で川を石でせき止めて水がたまるようにした。この水浴び場で四、五歳ころから地区の子どもたちについていって水浴びした。泳ぎも覚えた。教えてもらったというより上の人たちに「習った」。小学生になると夏休みは毎日、水浴びして遊んだ。
それと川にはユワナ(イワナ)がいたから、それもとった。ユワナとりは子ども数人で行く。一人では行かない。川や沢のキシにひそんでいるユワナを両手でつかむ。釣りではなく「つかみ」だ。30cmほどのユワナがいっぱいいた。1回で1尺(30cm)ものが5から10匹とれば、帰ってくる。
とったユワナは川沿いに自生しているササを折って、エラから口に刺して下げて持ち帰る。ハケゴなど使わない。家に帰って内蔵をとって、串に刺していろりの火であぶって燻製にした。子どものころも、大人になってからもとったユワナは自家用だ。売ったりはしない。自分たちが喰う分とれれば川から帰る。
少し離れた魚留川は、博士山頂まで続いていて、大きなユワナがたくさんいた。いまは釣り人が多く、小さなものしかいない。ここには、子どものころ、オヤジ(父親)にくっついていって(ついていって)、ユワナとりした。会津高田の仁王まで焼いた木炭を背負って売りに行ったとき 仁王の店からアミを買ってきていた。半円形(三角)のよくあるサカナとりアミだ。
オヤジが棒でキシを突くと、ユワナが出てくる。それを両手でつかむんだが、逃げられることもある。逃げられないよう、下流側にアミを持って待っているのが子どもの役目だった。