2023年8月18日 松山さんFBより → 庭師、思想家のジル・クレマン氏は「第三風景」 動く庭、動いている庭
■2023年8月24日に以下の2冊を購入している。
庭師と旅人 「動いている庭」から「第三風景」へ 単行本 – 2021/3/24
ジル・クレマン (著), エマニュエル・マレス (監修, 編集), 秋山 研吉 (翻訳)
動いている庭 単行本 – 2015/2/26
ジル・クレマン (著), 山内 朋樹 (翻訳)
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■福島県史料情報 第41号 2015年?『越佐行程記』(長谷部家文書(その2)74号、
会津藩士山内俊温が聞いた佐渡地震の記憶→ 資料
江戸時代に会津郡黒谷組叶津村(南会津郡只見町叶津)名主であった長谷部家は八十里越口留番所の役人も兼ねており、その伝来文書群は近世・近代一括で福島県指定重要文化財になっている。この文書群のなかに文化5年(1808)閏6月に只見村の五十嵐雅仙忠順によって書写された『越佐行程記』(長谷部家文書(その2)74号、左図)という興味深い紀行文がある。この時の忠順の年齢は弱冠21歳で、奥書によると、この写本は山内俊温の館に納めたものの控えであるという。
同書は、会津藩校日新館の武講係であった山内俊温が蝦夷地警備のため藩の密命を受け、越後・佐渡両国の海岸警備を視察した時の行程や見聞を記したものである。視察の政治的な背景は、当時の国際情勢と密接に関連している。南下政策をとっていたロシアとの間で緊張が高まり、幕府は文化4年3月に西蝦夷地を直轄領とした。5月には奥羽諸藩に対して北方警備を命じ、翌5年1月に会津藩は蝦夷地に出陣している。
33歳の俊温は僅か2名のお供を連れ、文化5年5月17日に叶津村を出立し、八十里越を通って越後国に入り、新潟・寺泊・出雲崎などの海岸部を視察している。
俊温一行は、視察の途中で地震の体験談を聞き、強く印象に残ったらしく書き留めている。俊温らは、宿泊していた出雲崎の米屋弥三郎宅を出発し、五ツ半(午前9時)頃に舟に乗り、東風を受けて七ツ(午後4時)頃に小木の湊(新潟県佐渡市小木町)へ無事に着いた。小木の湊では島倉屋芳兵衛の所に宿を取り、主人から享和2年(1802)10月15日に起きた地震で小木では地面が五尺(約1.5m)ほど隆起したことを聞いたのである。この地震は享和2年11月15日の未刻(午後2時)頃に発生した地震と同一のものとみられ、その大きさはマグニチュード7であったという。佐渡では小木の被害が最も大きく、民家のほとんどが倒潰し、さらに火事も発生して大惨事となった。海岸は約120mも干上がり、強い余震が続くなか人々は津波の襲来を恐れて他者をも顧みず一目散に避難したという。
所期の目的を果たした俊温らは、6月5日に六十里越を越えて田子倉村に入り、翌6日には只見村へ帰着したのである。
(渡邉智裕)
軽井沢銀山の水力発電
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