■2024年11月12日(火)
・午後11時より、小雨に。
・広報しょうわ12月号原稿を執筆し役場に送付。
・13日午前、継続畑の後片付け、午後は会津坂下(免許更新)。
・14日は終日、草花栽培研究会。42名。坂下農業普及所の協力。
・15日(金)最終採花予定。カスミソウ ムーンライト。
・16日、最後のハウス解体
・17日(日)上京し、18日は和歌山県。20日~21日東京ビッグサイト。22日、東日本板橋花き、23日明治神宮。夜遅く帰郷。24日新潟県長岡市映画祭。骨を掘る男 アオーレ長岡市民交流ホールA
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■ドラムの叩き方、リムをたたく 4分16秒から → 2010年06月スコラ・坂本龍一・音楽の学校 (drums & base編) 2-1
→ ポール・マッカートニーが語る、ザ・ビートルズのヒット曲誕生の裏側と軌跡 | Iconic Characters | GQ JAPAN 2022年7月
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■11月12日、南会津町田部 土っ子田島ファーム 水無圃場
ミストエース ハウス用
白アジサイ
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2024年2月26日、西洋オダマキ苗
(播種後、ポット仮植)
Gアップル
サーモン
ブラックバロー
クリスタル
ローズ
ブルー
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昭和村大岐 岩下圃場(菅家)
菅家 大岐岩下圃場
カスミソウ後作、不耕起
草花欠株へ補植 →5月6日から
Gアップル
サーモン
ブラックバロー
クリスタル
ローズ
ブルー
→ 5月16日 定植
↓
株養成
11月10日↓
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会津田島 土っ子田島ファーム
西洋オダマキAquilegia vulgaris
(2024年春植え、株養成中、2025年春開花予定)
播種→ポット仮植→定植
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下郷町
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宮地さんより
朝日新聞デジタル
アーカイブ 遺品の謎 祖父の遺品から100年前の謎解きが始まった
2024年10月8日 15時00分
この記事は2023年10月3日付け夕刊社会面で掲載されたものです。
下記、当時の記事です
「お久しぶりです。お尋ねしたいことがあります」
猛暑に見舞われたこの夏、一通のLINEメッセージが届いた。
送り主は池田知加恵さん(90)。1985年の日航機墜落事故で夫を失った遺族だ。15年前に取材で知り合い、その後も連絡を取り合ってきた。
事故についてのお尋ねかと思いきや、違った。
「祖父が残した古いアルバムが自宅に残っているんです。いまでは表に出せないようなむごい写真もあって、どうしたものか……」
100年前に東京を火の海に包んだ関東大震災の被災状況をまとめたアルバムで、そこには45枚の写真が貼ってあり、崩れ落ちたビルや橋などのほか、遊郭があった吉原で犠牲になった女性たちの遺体も写っているという。
知加恵さんの父は終戦を決めた「御前会議」にも列席した元陸軍中将池田純久(すみひさ)さん(1894~1968)だ。祖父の純孝(すみたか)さん(1864~1929)も軍人で「日露戦争時に乃木希典に仕えていたことがある」と以前に聞いたことがあった。部隊の食糧を管理する役職だったはずだ。
軍でロジスティクスを担ってきた人物がまとめた手作りの被災アルバム。池田家で長年私蔵され、100年の節目にその存在が明らかになった。
「ほかにも、我が家には祖父や父が残したいろんなものがあるんです」と知加恵さんは言う。
池田家に眠る「遺品の謎」。かつて私も現場を歩き回る社会部記者だった。50歳を過ぎて管理的な役回りが増え、現場取材から遠ざかって久しいが、自分で解き明かしてみたいと思い、ノートとペンをカバンに詰め込んだ。
アルバムは、知加恵さんが暮らす東京都内のマンションに保管されていた。
リビングで見せてもらった現物は横長のB5判。色あせ、一部すり切れた茶褐色の布地の表紙に「photo Album」と記され、その上に赤い飾り文字で「S.IKEDA」のサインが添えられている。
ページをめくる。「地震ノ惨状」「三越呉服店ノ残骸」「丸善ノ焼跡」……。いずれも、1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災の被災風景を写したものだ。
目に留まったのは、吉原(現在の東京都台東区)の惨状だ。吉原は江戸幕府によって公認された遊郭があった場所。関東大震災時には、ここで働く女性や周囲の人ら数百人が、近くにあった池に飛び込んで亡くなったとされる。
その池から搬出され、横たえられた女性らとされる写真には「逃ケ場ヲ失ヒ、池ニ入レルモ襲ヒ来ル熱気ノ為ニ惨死セリ」と説明が記されている。
今はどうなっているのだろう。そう思い、吉原の遊郭跡へ足を運んだ。
観光名所浅草寺の北約1キロ。スカイツリーを望む台東区千束の「土手通り」に、「吉原大門」という交差点がある。そこから西に折れて100メートルほど進むと、道の両脇に「よし原大門」と書かれた支柱が立つ。かつての遊郭への入り口跡だ。吉原の郭(くるわ)は堀で囲まれ、内側に塀があったという。
つまり、この門が堀と塀で囲まれた遊郭への「唯一の出入り口」だった。遊郭の名残か、近くには今も風俗店が軒を連ねる。
その一角を抜けて、道ばたに柳がしなる仲之町通りを歩くと、左手にこんもりと木々の茂みが姿を現す。石造りの玉垣と「奉納」と書かれた赤いのぼりが周囲を囲む。そこだけ時代が止まっているような一角は、「吉原弁財天本宮」と呼ばれる吉原神社の「飛び地」だ。
境内に入ると、小さな築山があり、その上に観音像が立っていた。関東大震災の時、「花園池・弁天池」と呼ばれた池に飛び込んで亡くなった人々の供養のため、1926(大正15)年に建てられたという。その脇には、真新しい「関東大震災百周年忌碑」の石柱も添えられていた。
観音像には花が添えられ、時折人が訪れては、手を合わせていく。
池はその後の開発で埋め立てられ、当時の姿はうかがえない。弁財天の境内に小さな池が造成されたというが、それも工事中で、訪れた時に水は張られていなかった。
聞けば、地元の吉原弁財天奉賛会が関東大震災100年の今年、震災の記憶を後世に伝えるために寄付を募り、池を整備する計画を進めているという。
大火に遭い、逃げ場をさがすように池に飛び込んだ人々を慰霊しようと、今も多くの人が心を寄せている。
知加恵さんの祖父純孝さんは大分県の出身で、震災当時、東京・四谷に住んでいた。100年前、同じ東京で命を落とした人たちに思いを寄せ、この写真をアルバムに残したのかもしれない。だが、知加恵さんによると「祖父はカメラなど持っていなかった」。
では、いったい誰が撮影したのか。
その謎を解くヒントを探しに、東京都墨田区にある東京都復興記念館を訪ねた。