プロフィール

03/31月、伊南川草稿1

■2025年3月31日(月)



月田禮次郎さん(昭和18年生)



■『奥会津の川』草稿1  3111文字


 古老の相伝ふる旧聞を申す事


 これは現存する古代に編まれた『常陸国風土記』の冒頭に置かれた言葉である(注1)。

 奥会津の川にまつわる古老の記憶を、その語るままに紹介してみたいと思う。そうすれば風土記に近づくのではないか?

  (注1)中村啓信監修訳注『風土記上 現代語訳付き』(角川文庫、2015年)112ページ。中村は1929年山梨県生まれの國學院大學名誉教授。


伊南川(南会津郡)


 2025年3月29日、雪の日の午後、南会津町南郷地区、標高516m 台板橋の月田禮次郎さん(昭和18年生)に子どもの頃の伊南川との話を聞いた。家の西手に水田があり、その先を伊南川が北に流れる。家の南は大石(おおひ)沢が西に流れ伊南川に注ぐ。

 台板橋には中世の板碑を転用した山神が祀られている。

 東の山稜、標高750mに月田農園がある。

 以前、農園開拓の話を父の茂さん(明治45年生)の書かれた地名ノートとともに雑誌『会津学 4号』(会津学研究会・奥会津書房、2008年)に「私の月田農園物語」として禮次郎さんから聞いた話をまとめたことがある。

 以来、農業経営の先輩として年に何度か自宅や農園を訪ね続けている。

 本書『奥会津の川』についても、企画がはじまった当初から話を聞くべき人として私のなかでは固まっていた。

 私は3月中旬の沖縄本島の湧水・苧(からむし)調査を終えて帰郷してから、まず最初に禮次郎さん宅を訪問することとしていた。

 

  朝、禮次郎さんの携帯電話に電話をしたが、お出にならなかった。そのため、私は昭和村大岐の自宅前の滝谷川の橋を渡り、鉄骨大型ハウス内で、営利切り花のたねまき作業を開始した。ドライフラワーにもできる切り花を今年はテーマとして種子を選定し購入している。かすみ草生産が主体だが、季節の露地切り花の生産も8年前から取組、現在その品目数は200を超えている。3月29日は融雪が進んでいるが、まだ積雪は120cmほどある。圃場(畑)の雪が溶けるのは5月連休明けである。それまでは苗を育てる作業が続く。発芽した苗は小さなポットに仮植し畑に植えるまでハウス内で育てる。

 作業を開始してほどなく禮次郎さんから電話があった。今日の午後1時30分に台板橋の自宅で川の話を聞くことができることとなった。

 昭和村大岐からは、滝谷川沿いの県道を南下し、小野川集落から喰丸トンネル(国道401号)、野尻川上流域を国道400号、船鼻トンネルを経て会津田島へ出る。そこから高野川、桧沢川沿いの国道289号の針生から駒止トンネルから小屋沢沿いに下り、伊南川合流地の山口から北上し台板橋となる。山塊の中を一時間余、軽自動車にて移動した。道路は除雪しておりスタッドレスタイヤ装着であれば通常走行が可能だ。

  2025年春、誠文堂新光社(東京)が雑誌『フローリスト』を廃刊とした。1984年の創刊以来、愛読していた月刊誌であった。切り花の生産をしている人が読む雑誌で、生花店のトレンドを紹介していた。

 私が高校を卒業して実家の葉タバコ栽培を手伝いはじめたのが1978年(昭和53年)で、しかし日本専売公社の民営化(JT)のため奥会津地域の葉タバコ栽培は1985年(昭和60年)で廃止(廃作指定地)となることが確定した。そのため1983年から花き栽培に転換することとなり、1984年から露地草花やかすみ草の栽培に着手した。ちょうどそのとき、月刊誌『フローリスト』が創刊され、その年に、南郷村の月田農園がカラー写真で掲載された。ヒメサユリ(おとめゆり)の生産者としての茂さん・禮次郎さん親子の紹介であった。40年前のことである。

  考古学者の周東一也氏の南郷村調査に同行し、1986年(昭和61年)3月17日に月田さん宅をはじめて訪問した。案内は南郷村教育委員会の酒井弘哉氏。月田親子が農園開拓時に拾い集めた土器・石器類を撮影した。『南郷村史』の石器実測と作図は私が担当した。農業従事の夏、冬は考古学遺物の調査整理作業を当時行っていた。


 禮次郎さん宅の、この日の玄関にはサクラが活けてあり、会津田島産のラナンキュラスが飾ってあった。また下足場には緑色の葉を茂らせた鉢物が置いてある。

 居間の薪ストーブには、ガードがまわしてあった。こたつの上には日本野鳥の会編のフィールドガイド小冊子が置かれていた。昨年産まれた孫が、同居しており、そのしつらえだと思った。窓ガラスの外には、鉢花栽培で使用する黒いカゴトレーが置かれており、私たちの訪問時にはヒヨドリが1羽来て、このトレーに置かれたエサをついばんで帰っていった。冬にはつがいのヒヨドリが来ていたがいま1羽になってしまったという。またジョウビタキ、カケスも良く来ている。カケスが来ると皆、逃げていくという。孫と一緒に窓外の野鳥をながめて冬を過ごしたようだった。

「これ(野鳥)来っと、たいくつは、しないんだよ」と禮次郎さん。


「去年(2024年秋のこと)は、ほんとうにたくさんドングリがなった」といい、農園の先にある黒岩山(1130m)に行く道路の上にもびっしりとドングリが落ちていたという。だからクマは出なかった。農園や里に下りてこなかった。シカも同じ。ただしイノシシは農園に出てこれまで食わなかったカラーの畑を掘り返し被害となった、という。


 十日前から農園に入る砂利道部分の除雪を行い、バックホーで建物周りなどの除雪をはじめた。現在2m積雪があるが、それほど雪は締まっておらず柔らかい。今年、雪上走行時、スノーモービルが転倒し下になったといい、80歳になったのであまり乗らないようにし、息子に任せているという。

 昨日は、農協の花の生産組合の総会だったという。今日で良かったと言ってくださった。


 「最近、葬儀が多くてな」と言い、「としとったひとが、亡くなると、取り返しがつかねえ」と語る。それは歳を重ねた老人が持つ豊かな生活の記憶のことである。人が一人亡くなることはその地域の大きな損失になるということ。

 「古老の相伝ふる旧聞を申す事」とは、生活記憶のことであり土地の豊かさとは、記憶の豊かさに支えられていることを示す。禮次郎さんは生活記憶の損失は「取り返しがつかない」という。

 禮次郎さんは語る。

 たとえば、台板橋地区で生まれ育った酒井さだかつさん(明治20年頃生)は、マスとりをしていた人で、サカナとりが上手でいっぱいとった人だった。昭和3年に新潟県の阿賀野川の鹿瀬ダムが出来るとマスの遡上が止まってしまった。伊南川には日本海からマスがのぼってきていた。村人はさだかつさんの言葉を今も記憶している。それは

「おれは、電気点(つ)くよりも、川マスのほうが良かった」

という言葉だった。村人の多くは電気が点いて夜の家庭に灯りがともることが良いことと思っていたが、この人だけは川マスのほうが良かったと言ったのだという。

 さだかつさんの妹が、禮次郎さん宅に嫁いだキヨさん(明治22年生)。禮次郎さんの祖母となった人である。親族である。


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