■2025年1月13日(月)
・日経 → プラザホテルの為替談義 米国は過ちを繰り返すのか
ニューヨーク市セントラルパーク近くのプラザホテル。そう1985年、日米など5カ国が米貿易赤字削減へドル高是正を決めた「プラザ合意」の舞台だ。
過去5年でドルは円に対し4割強、高くなった。仮に日本製品への関税が20%上がっても、この間の円安の恩恵が半分ほどそがれるにすぎない。しかも第1次トランプ政権の対中関税がドル高・人民元安を加速させたように、またドル高が進むとみる人々も多い。
逆に言えば、米国が関税引き上げの効果を保つにはドル高を防ぐ必要がある。ベッセント次期米財務長官をプラザ合意時のベーカー財務長官になぞらえ、「第2のプラザ合意」を演出するのでは、と臆測が出るゆえんだ。
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■大沼郡金山町三条集落は、昭和58(1983)年に村を閉じた。三条を流れる霧来(きりきた)沢では、栗田善一郎さん(昭和9年生)が7歳のころというから、昭和16年(1941)ころ、最後のマスを見ているという。
「おれが ななつのころだったがな、おやじと山に行ったどき、おおっきいマスが川を上ってんの見た。おやじはナタでマスの頭 かっぱたいてつかまえた。家さもってきて卵取り出したらどんぶりひとつも出てきた。霧来沢でマスを見たのはあれが最後だった」(註)
(註)現在、野尻川左岸の昭和村松山在住の鈴木克彦さんの聞き書きによる(「奥会津 暮らしの物語」『福島県立博物館紀要台24号』2010年、116ページ。漢字表記は一部ひらがなに改変)。
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■オラが若え時分、こっちから泊まりがけで大津岐さ行ってた頃までだ、マスとれたの。鹿瀬(新潟県東蒲原郡鹿瀬町)の発電所ができてからだめになった。オラが日暮さ入る頃だべ、できたの。それからあまりのぼらなくなった。魚道なんか作っても、その下に溜まったやつをみんな捕ってしまったから。少しぐれえ網でとってダムに入れても、知れてるだ、数は。それでも田子倉ダムのできるまでは、しばらく、1本2本ぐれえずつのぼって来たった。オラ、ヤスで突くことも、水に潜ってひっ掛けることも、両方、仲七爺から習ってできたから、トヨ橋の下で10匹ぐれえ掛けたことある。あまりのぼらなくなっても、あすこにはマスが溜まるだよ。それでもたいてえ1日やって2匹ぐれえだった。(註)
(註)平野與三郎述『山人の賦Ⅱ』(白日社、1985年)は東京新宿の出版社の志村俊司さんが檜枝岐村に通って聞き書きした記録。106ページ。語り手の與三郎さんは明治30年(1897)生まれ。田子倉ダム・発電所は昭和34年(1959)に完成。
■魚釣りはオレ、ずいぶんやってるだ。14歳のときからやったから、一人で村の奥の沢さ行って。そうして今まだやっているだから、もう70年やってることになるなあ。
はじめて大津岐さ行ったのは16の年だ。與三郎につれてってもらって、釣りはオラの先生、あの人、12,3の頃から仲七爺と一緒にやったからな。駒ヶ岳越えて、釣り小屋掛けといてなあ、イワナ釣ったり、まだマスがのぼりのぼりした頃だからマス突いたり、その頃は大津岐さばかり行っただ二人で。まだ開墾がはじまる前だ、たくさんいたったなあ、魚は。
平野惣吉述『山人の賦Ⅰ』(白日社、1984年)。惣吉さんは明治33年(1900)生。
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■縄文時代の生業
縄文時代には、狩猟・採集を基調とした生活を行っていたとされる。(略)
ミズナラ・コナラなどのドングリ類やクリ・クルミ・トチなどの食用に適した堅果類の収穫は、現在でも中秋頃のきわめて短い期間に可能である。
時期を逸すれば、地面に落下して朽ちたり、小動物に食べられたり虫が付いて食用に適さなくなるため、当時も短期間で収穫していたものと考えられる。また同時に、縄文人の重要な食料となっていたサケ・マス類の河川遡上と捕獲も、堅果類の収穫と時を同じくしており、個々人が収穫・捕獲を行うのではなく、集落や数集落が共同して行っていたことが想定される。秋の収穫・捕獲を逸すれば、その後の厳しい冬を乗り越えることができない。その不安を取り除くために、家族・集落内・地域内での決まり事が暗黙の中に生じたことは想像に難くない。かつて民俗学者の山口弥一郎は、只見川上流の「まわり川」という習俗に注目した(山口弥一郎「只見町田子倉民俗誌」『東北民俗誌会津編』)。これは、只見川に遡上してくるサケ・マス類の捕獲に関して、数集落が取り決めを設けたもので、各集落が年次ごとに捕獲場所を変えて収穫の平等化を図ったことであり、こまかなタブーまで設けられている。こうしたことが縄文時代にもあったのかを証明するのは難しいが、会津の山間地に今でも残る、山菜やキノコの採集の際に「山の神からいただく」「初採集の獲物を山の神にささげる」というような伝統や言い伝えのなかに、縄文時代以来のものがあるかも知れない。(註)
(註)現在喜多方市塩川町在住の芳賀英一さん(執筆当時は福島県文化財センター白河館学芸課長)による。『塩川町史第1巻』(喜多方市、2013年、83ページ)所収。