4/30(火)秋冷の花、たねまき

■2019年4月30日(火)小雨

 午前、会津田島。奥会津博物館。調査員の渡部康人さん。28日に野尻牛首城を踏査した件、野尻山内氏の書面等について打ち合わせ。

 午後、各種草花類のたねまきをした。

 夕方、大芦のファーマーズカフェ大芦家へ。平成最後の客として珈琲(ブラック)を注文した。

 帰宅後もたねまき(電灯つけ)。


旧事雑考

→ PDF

1525年 大永5年5月3日
山内藤八郎
藤原實俊

冨田左近将監實持


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自家製冷蔵庫を撤去





エキナセア種子



フェンネル ブロンズ(新種)
グリーン葉として出荷


バジル アロマット(グリーン葉での出荷)




大芦 小矢ノ原(近世は小屋の原と表記)
昭和の森キャンプ場は大混雑。
テント、車両等は30台以上か?




4/30(火)奥会津博物館企画展 呼吸する集落

■2019(平成31年最後の日)年4月30日(火)小雨

 4月26日から10月31日まで、福島県南会津町糸沢の奥会津博物館で開催されている企画展「呼吸する集落」を観た。担当されたのは調査員の河原田宗興さん。
 これまで2度、本展の現調査結果をうかがう機会もあり、充実した内容となっている。
 受付で資料A4版10ページも配布している。

  → 2017年10月29日 集落での暮らし


  → 2018年8月26日 水害への祈り











企画展示室入口左手に芳名録とともに、
資料集が置いてある。




4/29(月)秋冷の花(宿根草)見本園

■2019年4月29日(月)晴れのち曇り

 午後、家向沢口に2畝、白黒マルチで畝たてし、宿根草の見本を植える。野ネズミ食害等も懸念されるので分散して植える。











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最近の食堂のテーブルのコンセント
100vのほか
USB充電機能も

4/29(月)晴れ、野尻 丸山城跡調査

■2019年4月29日(月)

午前9時~10時30分 踏査。








200段以上ある階段





野尻

こんぴらさま

丸山城郭1




郭2

郭3



丸山城跡から牛首城跡(主郭)を望む


4/28(日)昭和村野尻の山城踏査(栃尾沢城=牛首城)

■2019年4月28日(日)朝雪2℃、のち晴れ15℃。

 昨日夕方からの降雪が5cmほど新雪で屋根等に積もり、周囲山塊は雪化粧となった。
 午前6時30分ころから、集落内の大岐センターの冬囲い外し、諸看板(立ち入り禁止等)を建てた。
 草花類にかん水した後(本日もユーカリ仮植)、


新雪

大岐センター


窓の冬囲い板


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 朝食後、午前8時10分頃、佐倉のからむし織りの里(道の駅)駐車場着。会津田島の渡部康人氏(奥会津博物館 研究員)と待ち合わせ。

 午前8時40分、野尻集落の和久平遺跡(太平作、作=柵)から牛首城(栃尾沢城)を遠望し、野尻郵便局(ダテノウチ、野尻山内氏居館跡)、居所入(沢)から9時に登坂開始し、午後2時に途中沢(栃尾沢)に下山した。登坂に3時間。下山に2時間。案内看板も道も無いので、尾根筋を歩き、急坂から山城遺構を調査、確認し、北側の沢に下山した(雪崩地形で降りる場所が限られている)。
 
 居所入に駐車しておいたので、解散前に集落から1台の白い軽トラックが道路を直進してきた。菅家友男さん。朝から車があるので、気になっていたとのこと。友男さんの小屋がここにある。2018年に居所入の砂防ダムが建設されたが、それは砂防ダムの上に砂防ダムを新設したのだという。ダムが土砂で埋まったためという。


 午後2時30分に解散した。
 途中尾根の分岐点にあるとされた看板も雪等のため無くなっていた。


---参考資料---



   上の写真 → 2012年6月9日の踏査記録(下中津川じゃがいも亭、現在は閉店)

 ※2019年4月25日夜、野尻、小林弥吉氏宅にて高橋氏より教示された資料(上記じゃがいも亭)



------基本文献-----

 2000年5月21日、22日に松岡進氏が踏査し、その結果を2001年7月に『中世城郭研究』第15号(中世城郭研究会)に発表している。以下はその縄張り図である。
 野尻には西に牛首城、東に丸山城が確認されており、特に丸山城については松岡進氏のこの踏査・報告で明らかにされた。




usi-kubi



maruyama



usi-kubi

2016年2月9日、
和久平遺跡から牛首城
手前尾根は「おあたごさま(愛宕様)」の尾根。
右が途中山、途中沢。

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isho-iri

第二次大戦前の地図


谷を向かう旧道破線が明示されている
(牛首城への大手道)

20190428踏査ルート
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幕府巡検使等に供覧使用と推察
その際、古館・城を調査される前提で作成
2016年1月に、はじめて確認された絵図。



1680年には
中丸古館(栃尾沢城=牛首城)
古館(丸山城)
と記述。
いずれも「館」(たて、あるいはタチ)









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1788(天明8)年絵図


1788年には
牛首ノ古城(栃尾沢城=牛首城)
古城(丸山城)
と記述。
ここではじめて牛首という語句と、「城」が使用されている。
これも御上使様のために制作されている



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踏査 2019-04-28

居館跡(郵便局)と丸山城(後方尾根)


近世 野尻村絵図より
山ノ内二ノ丸 □□跡


居所入の砂防ダム



おあたごさま


右の木札には記載にいくつか誤記がある

愛宕様から西に牛首城の松群のある尾根を望む(対岸)


標柱338



最近のツキノワグマの糞が尾根上にはたくさんみられた

熊による樹皮のはぎ取り跡
クマハギ

主尾根から牛首城のある尾根に向かう急傾斜地(危険)

渡部康人氏

南側から牛首城の尾根全景(キタゴヨウ)


堀切1

堀切2


主郭部の石垣





北に延びる土塁

北の途中沢合流部の杉




1985(昭和60)年10月23日に
初調査(踏査)。
福島県の城館跡調査のため
三島町の小柴吉男氏が来村された。
同行として中向菊地成彦先生、
村教委の舟木幸一氏、
村文化財保護審議会委員の菅家博昭。

愛宕の尾根から谷に下る(おっこし)、
そこから急斜面を直登して
牛首城に。




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■ 2018-8-18 菅家博昭            81192文字
菅家博昭執筆『広報しょうわ』の連載記事



(一)一五九四(文禄三)年の記録書

文禄三年 大沼郡中津川くい丸御検地帳        ※(原書がくい丸、と標記)

 最古の書面が五十年ぶりに確認されたことが昭和村公民館の根本崇範氏より、二〇一六年三月の昭和村文化財保護審議会で報告された。それは『文禄三年 大沼郡中津川くい丸御検地帳』という帳面である。昭和村内に現存する書面では最古のものである(註1)。
 これは昭和村野尻中向の菊地成彦先生により提供され『福島県史十(下)』(一九六八年)八五七頁に掲載され、翻刻字句等の誤りを補正したものが『田島町史五巻』(一九八一年)六四三頁に掲載された。
 『田島町史』には当時の大芦の五十嵐朝良氏により確認された『大芦村写(検地帳)』の翻刻文も追加掲載されました。大芦村検地帳は『昭和村の歴史』(一九七三年)の五八頁と六七頁に写真が掲載されたが原本は行方不明となっている(この複写は会津図書館にある)。
 今回確認された『文禄三年中津川くい丸御検地帳』は『昭和村の歴史』に写真は掲載されておらず、すでにこのときに紛失したと思われる。その後も、原本はずっと行方不明になっていた。

 一五八九(天正十七)年六月、米沢の伊達政宗が会津黒川(現在の若松)の蘆名(あしな)氏を滅ぼした。その幕下である山内氏は横田本家等が抵抗を続けたが、翌年の八月九日に豊臣秀吉が会津黒川に入り、奥羽諸大名の所置を行った(奥羽仕置)。
 伊達政宗を米沢に退かせ、会津領は蒲生氏郷(がもううじさと)に与えた。秀吉は没収地の会津の検地を行う。小中津川・松山・下中津川の一部を領有した川口山内氏(現金山町川口)の当主は伊達家に臣従し米沢に行き、後に白石市に住まい、野尻山内氏は帰農した(註2)。
 検地とは田畠を竿や縄で計測し、実際の耕作者を確定するものである。しかし実際にはその地の帳面を指出(さしだし)、それを確認・点検する検地が多かったといわれている(注3)。蒲生氏郷は会津に来て検地を行う、その記録が「文禄三年の検地帳」である。
 江戸時代になると野尻組と言われた昭和村は、中世(室町・戦国時代)は「中津川郷」とよばれていた。「中津川郷のうち野尻村」という表記であった。
 この検地帳も「中津川くい丸」という表現になっており、下中津川から両原までの地域の田畠の調査が行われている。特に注目されるのは、畑ごとにに漆(ウルシ)が計三十九本と、桑の記載があり、これらが栽培され年貢(税金)の対象であったことが確認できる。つまりウルシ(樹液のほか、実をロウソクにする)、桑(養蚕、マユ)が生産されていたことは確認できる。しかし、からむし(青苧)が栽培され、それが租税の対象であれば、あるいは産物となるようであれば検地帳に記載が行われるはずだが、記載されていない。
 この史料については、特に「荒れ(耕作放棄地)」について福島県立博物館の竹川重男氏が「会津藩「負わせ高」の検討」(『福島県立博物館紀要 第四号』一九九〇年)で、詳細な分析をしました(註4)。
 また、同じ県博の高橋充氏がウルシのことについて、この検地史料等を使い「戦国・織豊期の会津の漆と蝋燭(ろうそく)」(『米沢史学 第二六号』二〇一〇年)に論文を発表している。
 検地帳の畑地の呼び名が現在に通じるものがかなりあります。
 こうした史料からわかることは、現在の昭和村は野尻の徳林寺入口の野尻山内氏「開創五百年記念塔」にあるように約五百年前ころから、今につながる各集落の形成が行われたものと思われる。当時は、米のほか、雑穀主体で、ウルシやクワの栽培が行われた。江戸時代になりアサが栽培され、その後、江戸時代中後期から商品作物のカラムシが栽培され青苧が主な商品となった。(広報しょうわ二〇一六年五月号)


(註1)これが村内に現存する書面の最古のものであるが、昭和村の事を記す最古の書面は『昭和村の歴史』(一九七三年)に会津史学会の山口孝平氏が福島県史の資料調査で確認した南郷村鴇巣(現・南会津町)の山ノ内武行氏宅に伝わる野尻山ノ内家文書群である。これらは『南郷村史』『只見町史』で影写資料が掲載されている。資料は一括して、二〇一七年秋に南会津町の奥会津博物館に預けられた。
 一四八二(文明一五)年、一四八九(長享二)年、一四九一(延徳三)年の蘆名盛高の買地安堵状、一四八八(長享二)年の段銭免除の書面には「奥州会津大沼郡中津河之村之中、の志りのむら(野尻村)、、、、」とある。一五一四(永正十一)年の文書には「大沼中津川之内野尻村、、、、、、」とある。

(註2)福島県立博物館の学芸員の酒井耕造氏『近世会津の村と社会-地域の暮らしと医療-』(二〇〇七年)の「肝煎と惣百姓」(一一六頁から)で、鴇巣村名主の山内徳左衛門について詳述している。系図では野尻右馬佐実道-①徳左衛門義俊-②徳左衛門俊衡-③八右衛門俊盛となっている。一五八九(天正一七)年、伊達政宗の会津侵攻で野尻山内家は伊達家に付く。その後、野尻山内家は消滅し、①義俊が伊北郷和泉田村に暮らしていたが、一六四三(寛永二〇)年に鴇巣村の肝煎(名主)となる。徳左衛門家の本家筋という伝承を持つ山内一之家、武行家のうち武行家に蘆名盛高発給文書群が伝わっている。

(注3)牧原成征「兵農分離と石高制」(『岩波講座日本歴史第十巻』二〇一四年、一五七頁)

(註4)福島県の近世史研究者の竹川重男氏は「会津藩の「負せ高」の検討」(『福島県立博物館紀要』第四号、一九九〇年)で、『福島県史』の「文禄三年大沼郡中津川喰丸検地帳」を検討している。下畠のうち三年荒、四年荒の畠地が畠方全面積の半分近くの四五・一%に達している。特に「荒」「永荒」「当荒」「三年荒」「四年荒」について検討をしている。 カノ(焼畑)でも、火を入れた初年にソバ、二年目にアワ、三年目に大小豆を栽培したあと地力回復のためにその耕地を放棄する(アラス)。輪作と荒しを繰り返す耕作型形態とするれば「あらし」=「休耕地」に推定している。
 一方、「荒田」は用水不足による、人為的、社会的理由から意図的に「あらし」が行われ、「荒田」が発生したのではないか?とする。
 「荒」とは、人手の全く加えられたことのない耕地を指すのではなく、農地の耕作の仕方、水の利用の仕方等、技術的、社会的条件によって、やむを得ず「荒」としている土地があった。耕地として再生することが可能な土地。 

 佐藤洋一郎氏は「地球環境問題にみる歴史学と自然科学の融合」(『環境と歴史学』勉誠出版、二〇一〇年)で、休耕が日本列島の水田稲作の中にも見られたようである、としている。水田と草だらけの休耕地あるいは非耕作地とが共存する極めて雑然たる景観を呈していたものと想像される。こうした景観は、おそらくは中世の文書に現れる「かたあらし」や、あるいは中近世の荘園の絵図にあらわれる「野」の記述がそれに相当するのではないか。「野」は当時決して特殊なものではなかったと思われる。
 


(二)一六八〇(延宝八)年 金山谷野尻組絵図

 二〇一六年の正月九日に、昭和村佐倉のからむし工芸博物館の吉田有子さんから電話がかかってきた。
 「野尻中向の笹屋文書に関して追加史料が出てきました」という。一月十七日に資料を実見し撮影した。大きな地図でした。なおこの絵図は、一九七〇(昭和四五)年十二月二三日付の毎日新聞にて包装されており、裏書きに「昭和三五年九月裏うちする」と追記されてあった。
 南を上とした絵図の中央には岩彩(絵の具)の青色で一本の筋(現在の野尻川、当時は内川と呼ぶ)が描かれている。上部には「はかせ山・白森山・舟鼻山・御前嶽」が山名とともにかかれていた。川筋には黄色の丸印に村名が描かれ、赤く塗られた道で結ばれている。各村(現在の大字)の山境界についても赤い線で引かれている。
 現在に無い村落は大岐と小野川の間に「森土」という村、下中津川の気多渕の東手の岩地蔵のある猿舘山に「猿舘」という村が描かれています。猿舘は一五〇〇年代に田島の長沼氏が船鼻峠を越えて野尻山内氏を攻めたときに戦場ともなった場所で、山城であろうと考えられる。
 また木地小屋の拠点集落となる見沢・木賊平・畑小屋はまだ無く、柳沢木地と両原の赤倉木地のみが描かれている。
 絵図の隅に「延宝八年 申ノ八月吉日 金山谷野尻組絵図」と表記され、絵師名はありません。延宝八年は一六八〇年で、いわゆる江戸時代の近世前期。一六〇〇年代の村の史料は現存が少なく、この新確認の絵図は、現在の昭和村や南会津郡一帯で産地化が成功した麻に加えて、会津藩の振興策により、ようやく青苧(からむし)の栽培がはじめられた時期とみられる。
 細見すると、「伊北 布沢村 野尻村 山神境」として社殿(石祠)と思われる建屋と、樹木(杉と松等)が描かれている吉尾(よしゅう)峠。美女帰峠、高清水山、ちいさな建屋(祠?)と樹木が描かれている。野尻の古城跡が二カ所大きく記載されている。現在、野尻集落の西手にある牛首城(栃尾沢城とも、途中沢)は「中丸古舘」とあり、東手の丸山城と研究者が呼称しているところは「古舘」と記載している。
 これは吉尾峠・美女帰峠を詳細に描き、城が描かれており「城絵図」であろうと思われた。その後、会津若松市の会津図書館に何回か通い、延宝八年の同時代の史料にて時代背景を調査してみた。

 『会津藩家世実紀 第三巻』(歴史春秋社、一九七七年、五二九頁)に、「十二日 無御休 野尻村御泊、同所 古城に御家来衆被遣絵図調、十三日無御休大谷村御泊」とある。
 絵図が描かれた翌年、一六八〇(天和元)年四月十二日に幕府廻国使(巡見使)三名と従者らが来村し、古城を調査していることがわかった。大内から田島、伊南古町、梁取、布沢から野尻泊、大谷村泊で柳津をまわっている。いずれも中世の山城跡を調査している。同行者が現地踏査をして絵図(縄張図)を確認していることがわかる。
 五五二頁の注記で補うと、江戸幕府の廻国使は保田甚兵衛(宗郷。使番、奥羽松前を巡視、のち大坂町奉行、江戸町奉行。大和国にて四千石)、佐々喜三郎(成澄。小姓組。一〇五〇石)、飯河伝右衛門(信順。常陸国にて五百石、米二百俵)。
 一六八〇年五月に四代将軍家綱が亡くなり、巡見使の派遣が予想されるなか、同年八月にこの「野尻組絵図」が作成されたのではないかと思われる。
 延宝八年、廻国使が南山御蔵入領への巡視にでかけた会津若松城下では、四月十一日に五三五軒が焼失、十三日に六八〇軒が焼失する大火がおきており、幕府一向が来ているなかでの付け火といわれている。
 この廻国使には会津藩士の向井新兵衛が随行案内しています。一六六二(寛文二)年に『会津四家合考』、一六七二(寛文十二)年に『会津旧事雑考』を向井はまとめたており学者である。 
 とすれば幕府廻国使が見た会津地域の詳細な古城絵図(縄張図)は向井新兵衛が関与して事前に作成したものとも考えられる。
 この会津藩の随行者に、田島の会津藩南山御蔵入奉行の飯田兵左衛門(山形最上から青苧根を新しく移入し、奥会津に植え付けを推進した人)も随行している。
 昭和村中向の小林政一氏が『奥会津の画師 佐々木松夕』(ふるさと企画、二〇一五年十一月刊)を出版されたが、新史料の絵図は、松山村の絵師の秀度、秀徳、幸助(東牛斎松夕)の前の時代に該当していおり、今後の調査が必要である。
 『金山町史』の口絵に「金山谷組絵図」があり描かれたのは同時代の延宝年間で、関係がありそうである。  (広報しょうわ2016年3月号)