2/28(水)雪に

■2018年2月28日(水)雪に

 昨夜、奥会津博物館の渡部康人さんから長い電話があった。3月25日(日)の午後の福島県中世史研究会で、根本資料を用いて野尻山内氏について発表される。現在、報告のための資料・まとめをされており、当方の見解を話した。
 資料がほとんど無い、中世の奥会津の山内氏。どのように考えるか?





 
野尻村 牛首城  栃尾沢城とも

中丸古舘と絵図
延宝8年 
古舘は丸山城





2/27トルコギキョウのたねまき

■2018年2月27日(火)
 
 あさって、
 3月1日より、かすみ草のプラグ苗が2品種入荷する。定植はこれから圃場の2mの雪を消してからの4月。ポットに仮植して、1ヶ月、凍らないようにしながら馴化させつつ、じっくりとそだてる。無加温で、6月下旬の開花を予定。

 今期のかすみ草作業(ポット仮植、苗管理、圃場の雪の除雪等)がはじまる。


■沖縄でのトルコギキョウ生産者交流会に参加した会津田島の湯田さん。「農家の日常を伝えるブログの再開を」お願いしたところ、はじまりました。カラー(切り花)の加温もはじまってくるようです。
 伝える、ということを意識して日常を見直す。そうすると、伝えるためには、何か工夫が必要。一般の皆さんが家庭にあるゴマと、花の種子を比較して、伝える、、、考えて伝える事例です。

 → 2月21日 トルコギキョウの種蒔き


■淡路島の宇田明先生は、これからの花生産者のあり方を、小面積職人的栽培と、温室経営型(次回掲載)に分類している。→ 2月25日の記事

■『農耕と園芸』3月号の大田花きの宍戸純氏の連載、「宍戸のミカタ」では、生花店の休業・廃業が増加していることを紹介している。
 そして切り花仕入価格の上昇による問題。花に詳しくない花屋さんの問題、、、、、価格の価値はこの花のどこにあるのか?
 生産者は何をすればよいのか?については、
 見た目ではわかりにくい生産の苦労や種苗事情など、しっかり花屋さんに知ってもらうべきで、生産者の当たり前を買い手に伝えることが今、花売り場の現場で求められている、としている。
 
■3月6日(火)13:30~16:00に都内・法政大学審一口坂校舎101教室で平成29年度下記日持ち性向上対策実証事業報告会が開催される。平成29年度の試験研究結果報告(市村先生:農研機構)、低温貯蔵試験など実証事業報告(松島)、日持ち保証販売にトライ!(フルーロン花佳薄木社長)、日持ち保証販売の取り組みと成果(日比谷花壇大瀧部長) →  詳細(松島義幸さん)


■私は風邪で参加できなかったが、2月21日に開催された。 → 第19回MPS参加者ネットワーク協議会

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■ オリンピック・カーリングの臨場感、会話を伝えるピンマイク  → 西会津加藤さん

 隣国での冬季五輪のテレビ中継を見て感じるのは、画質よりも、音の臨場感。ジャンプでも、スタートするとすぐに頭上のマイクを滑走面に降ろして音を拾う、、、、固定しておいてもよいかと思うのだが、いちいち、マイクを付けた巨大なブームを下げているのが、カット(画面)としては、目立ちすぎるのだが、それが音を意識して伝えようとしているのがわかる。
 このようにして五輪のテレビ中継を見るとき、画質よりもライブ・同時に行われている・フェイク(うそ)では無い・真正さは、「音」にあると放送企画者側は判断しているのだろう。水泳でも同じだが、スピードスケート等ではカメラがレールの上を高速で移動し走行している脇から撮影する。
 つまり、映像の真正さを、より伝えるためには、音が重要。
 テレビのバラエティ番組での、背景音は、聴衆のざわつき(へえ、とか、同意の声)を編集で加えていることのフェイク(うそ)にならされた聴視者からすると、五輪の音は斬新に聞こえる。
 音楽が電子クリック音の正確さを基礎に作られるものを聞いていて、先にPV(プロモーションビデオ・宣伝動画)で紹介した、山形出身のフォー・オクロックのどこに魅力を感じるかといえば、背景にクリック音を感じない手作り感で、音にすきまがあること。


■昨年末、金山町で暮らし始めた方がFBで書いていた一文より(2月22日)

そこは毎日目にする、ただの森だった。
ただの森がフクロウが鳴くことによって、その存在を大きくした。
明日、僕はその森の前を通るだろう。
その時、フクロウの声を聞いたこの一夜のことを思い出すだろう。









カフェ ブルームーン(山形出身のフォー・オクロック)

フォークロック、、、、フォー・オクロック 山形県のバンド。

デビューアルバム『港湾都市』アルバムダイジェスト
http://youtu.be/sOZcENKTsVM


アナログ、オーガニックな印象。数年前、米沢市内のカフェでCDを購入してからずっと聞いている。

作詞/作曲:井上直哉

モデルは沖縄の赤嶺梨奈。

映像はChica Orito / sunshine pool

カフェ・ブルームーン  再生2600回







2/26(月)晴れ、病院。

■2018年2月26日(月)晴れ

 朝は零下10度ほど、昼は晴れる。
 25日18時ころから父・清一(85歳)の具合が悪くなり、26日は朝から会津若松市内の総合病院へ。MRI検査、脳神経外科を受診した。経過観察となり、再検査。帰省中の洋子さんと、弟たちにメールした。

 病院では、村人と何度もあった。皆、定期的に通院をしている。

 私の風邪はひとまずほぼ治したが、ぎっくり腰後の痛みはまだ継続中。
 今日、一日病院にいたので、インフルエンザ等を懸念している。


■昭和村のホームページが22日に更新となっていて、地域おこし協力隊の新年度(2018年4月から)の再募集が掲載されていた。昨年12月から募集していた「観光協会」「喰丸小管理」「道の駅」は掲載されていないので、応募があったものと推察。それ以外の8名は応募が全くなかったようだ。一方、昨年12月に確定した織姫体験生は6名のうち2名が辞退したようだ。昨年は3月までほとんどの人が応募を辞退し最終的に1名しか残らず、新年度に再募集をした経緯がある。

 日本は人手不足で、これまでのような学生の体験ボランティアのような具合にはいなかくなっている。無雪地帯の田舎に魅力的なところはたくさんあり、多くの人々は西日本、南の島々に。福島県への地域おこし協力隊そのものの募集者がかなり減少している。

 一方、昭和村のかすみ草の新規就農者は7名と言われている。これまで年に1~2組(名)であった。

 いずれ、関係機関は、募集を盛んに宣伝するが、その内容と結果については一切非公開としており、どのような内実なのか、中間的な報告もなされない。この閉鎖性がとても問題なのだと思う。SNSで盛んに宣伝をしても、経過を、結果を公表しないので、参加予定者としては、信頼できないといわれてしまう。

 
■昭和村ではこの4月22日に村長選挙が予定されており、選挙となるような噂である。この3月9日からの村議会で話題になるのだろう。12月議会の内容を伝える「議会だより」を見ても、村はいま多くの課題を抱えていることがわかる。課題が明確となると解決策は見出し易い。
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病院の7階からの展望



■『農耕と園芸』3月号の記事を紹介したところ、小川孔輔先生  →  八百屋の復活、米屋の躍進、有線放送会社の農業参入

2/23(金)農耕と園芸四月号 原稿(日々のいとなみ)

■2018年2月23日(金) 晴れ

 風邪はよくなりつつあるが、今朝方、荷物を持った際に、少し腰を痛めたので、また安静にしている。

 東京の誠文堂新光社の『農耕と園芸』編集部の黒田編集長から電子メールがあり、4月号の原稿の連絡で、千文字書いて返送する。前年12月号に掲載、4月号に掲載となる。生産者の書き手が四名いるので季刊のような執筆となっている。
 
■2月22日の18時、三島町宮下で「桐の育て方報告会」が開催されている。町民センター大ホールで、50名ほど参加されたようである。
 三島町では、専門性のある人材を協力隊を経て採用しており、桐専門員の藤田旭美さんが、一年間に調査した文献類、聞き書き、町内の生育状況、実生・分根の試験もされている。
 特に、文献調査はきちんとされている。

    → 「桐(きり)の里」として知られる三島町が今春、桐の栽培マニュアルの作成や樹木の育成管理を担う「桐専門員」を新設 2017年7月4日毎日新聞




2/22 木頭のクサカジ(2) 文化庁記録等

木頭のクサカジ(太布)

  四国の徳島県那賀町木頭での太布織りの素材はコウゾがいまは使用されているが、かつてはカジノキ(穀)が使われ、クサカジと呼ばれたものの場合は、加熱せずに皮を剥いで利用していた。作業にはカジという呼称が使用されているが、現在はコウゾを使用している。現在は、一月中旬に、畑から収穫したコウゾを、カジ蒸しと呼ぶコシキで蒸す作業を経て、蒸されたコウゾの皮を剥ぎ、灰汁炊き、木槌たたきをしてオニカワ(外皮)をとった繊維を川のなかに浸ける。翌日、それを河原の砂利の上に干し夜冷で凍らせる。凍った水田の上でも行っていたという。冷気を利用することが繊維の柔軟化に重要である。
 生の加工のクサカジの技法が衣料等原料の古層を伝えていると思われる。
 コウゾは皮を製紙原料として大量に移出していた関係から、コシキを利用して蒸すという産業としての装置を持つようになっている。以下資料により紹介する。後段の高橋八重子氏のものがいちばん詳述している。

  文化庁がまとめた『無形の民俗文化財記録二〇 紡織習俗Ⅰ 新潟県・徳島県』(一九七五年)は重要。これは太布庵で宮本常一編の本とともに、阿波太布製造技法保存伝承会大澤善和会長に教示された(註1)。同じ内容のものが『民俗資料選集 紡織習俗Ⅰ』として国土地理協会より発刊されこちらは古本等でも入手しやすい。

 文化庁文化財保護部編『紡織習俗Ⅰ』(国土地理協会、一九七五)の一五九頁から「阿波のタフ紡織習俗 那賀郡木頭村」は、徳島県文化財専門委員の後藤捷一氏による調査報告である。調査は一九六二年(昭和三七)に行われた。
 聞き取り調査は、原料植物については安岡岩樹氏(七五歳)が話し、紡織については岡田ヲチヨ氏(七四歳)、榊野アサ女氏(七二歳)の二名から話しを聞いている。
 今回訪問した際に、大沢会長が説明されたなかに「榊野アサ女さんからカジ織りを教わったのが、あの方です」と紹介される。また岡田ヲチヨさんが織られた太布も拝見した。
 安岡岩樹氏は調べてみると高知県生まれで二五年間、出原で、馬子を専業とされた(阿波学会資料)。優れた話者であった(註2)。

 前掲資料『紡織習俗Ⅰ』では、
 阿波の国では、往時、こうぞ(楮)・かじのき・しなのき・藤・麻・ヒュウジ(苧麻)・ツナソ(黄麻・ジュート)などの繊維で織った粗布を総称してタフ(太布)とよんでいた。本来の太布は昔の栲布で、こうぞやかじのきの繊維で作った織布であるが、のちにこれに類似するものもタフと呼ぶようになった(一六六頁)。

 木頭のタフ(太布)は、原料に こうぞとかじのきとをおもに用い、ままツルコウゾ(ふじかずら)や 麻などを使用したこともあるが、現在はツルコウゾ、麻は使用しない(一六九頁)。(※この報告者は ままという言葉を使用している)
 こうぞとかじのきは、山野に自生し、それを採取していたが、両者とも製紙材料となるので、タフを製するというよりも、製紙原料として販売するほうが利潤があり、製紙原料としは、かじのきよりもこうぞのほうが優秀なので、こうぞの栽培が行われ、一部はタフとなり、大部分が製紙原料として商取引された。
 

 ニカジ。木頭ではこうぞをニカジと呼ぶ。樹皮をはぐ場合に蒸す(煮る)ため、この名が生まれたものと思われる。
 クサカジ。かじのきを木頭では、マカジまたはクサカジともいう。生木採取の時期は、こうぞと同じように12月から3月ころまでで、ままこうぞと同様に蒸煮する場合もあるが、タフは蒸さず、そのまま皮をむくのが普通である。
 生木はこうぞよりもやや大きいものが喜ばれ、刈り取ったものは日当たりのよい場所で乾燥する。この乾燥加減は、皮がよくむけるか、むけにくいかに大きな影響があるので、乾き加減を見ることが肝要である。

 そして適度に乾いた幹を縦縞になる程度に表皮をざっと古鎌でこすり落とし、膝で押さえたわめて、こうぞの場合とは反対に、梢端部から下部に向けてはぐ。
 皮を約一握りぐらいずつ根元から四、五寸のところを共皮でしばり、竿や張縄に陰干しする。

 つぎにカジ殻(皮をはいだカジの幹部)を割ったものや竹のへらですごいて表皮を取り去る。それから手で揉みあるいは、足で踏み、または槌で打つなどして、じゅうぶんに皮を柔らげてから、績みにかかる。この作業をカジヲコナスという。

 木綿との交換(一八三頁)。明治以降、タフは自家用以外は、全部入山(木頭地区に入ってくる)して来る商人に売却したり、木綿のものと交換した。
 取引の相手は、美馬郡の穴吹町や、名西部の鬼籠野からのきまった商人であった。一反の値段は六〇銭内外で、普通木綿縞と交換する場合はタフに歩がよく、一反について十銭ないし二十銭の追加金があったが、同じ木綿のものでも絣(かすり)などの高級品には、反対に二、三十銭の追加金を出したものである。
 この場合、こうぞ製品は糸が太いので強く、袋用に喜ばれた。

 蒸すと灰色を帯びた淡褐色となったが、カジ製品は糸が細くて色が淡く、美しいので、値段は上位にあったという。
 袋類(一八二頁)。往事は山村の人々が、雑穀を運搬するには、必ずタフの袋(タフ袋)を利用し、急坂では荷負棒の上荷として、剣山周辺においてはなくてはならぬ用具のひとつであった。

 中井伊与太・曾木嘉五郎「阿波国祖谷土俗調査」東京人類学雑誌(第十二巻第一三三号・明治三十年)には、
 太布に二種有り。一は麻のみにて織るものにして色白く久しきに堪ふ。
 一は麻を経に楮を横に織るものにして、品質粗悪且つ繊維弱し。

 現今祖谷にて織る所の太布はこの様なりとす。
 而して太布に要する第一の原料たる麻は夏日之を刈り取り、大釜にて蒸し柔軟なるを度とし、之を乾し置き、陰暦十月の頃 之を渓水にて晒して、悉く外皮を去り、冬時雪深く戸外に於て労働する能はざる際、糸車にて紡ぎて糸となし、春に至り機にかけて織る。余等が旅行の際、麻の刈入れに着手せし所あり。或いは既に之を蒸して竿にかけて乾せる所もありし。(一六八頁)

 『四国連合共進会 出品物申告書』(明治十九年五月一日より同三十一日迄徳島に於て開催せられた折のもの)では、
 木頭の太布 刈り取りたる楮を数十日間干し(略)古鎌を以て掻き堅筋の創(きず)を入れ、以て一本の楮皮三~四枚に取り、二~三日間蔭乾になし、尚ほ日に干す事九日にして、楮の割枝を皮の裏に充て引き、然る時は表黒皮翻し落つ。夫(それ)より又一日程日に乾し、而して能(よ)く揉み柔らげ、後ち通常の苧の如くウミ、之を二日間水に浸し後、紡車にて撚りて綛(かせ)に掛け、干したる後ち灰にて煮る。

 然る後は河水の流れにて能く灰を落し、縮みたる糸を引延ばし、水気を去り、米糠を附着して糸の縮まざるように竿にかけ、重りをなし乾すなり。
 之を綛にかけ尋常の機に仕立て織物とす。
 只異なる所は経糸(たていと)には織毎に布海苔を引き、緯糸(よこいと)は管巻の儘(まま)煮て用ゆ。凡(およ)そ七~八反を以て一機となす。
 上等の職工は一反半を織る。機械は地機を用ゆ。(169頁)


(註1)二〇一七年四月四日、徳島県那賀郡那賀町木頭和無田字イワツシ一の太布庵を訪問。四月二十二日の徳島新聞読者の手紙(投稿)欄に、私の投稿した以下の太布庵訪問記が掲載された。
 国の重要無形民俗文化財に指定された阿波の太布製造技術を見学するために、那賀町(旧木頭村)を四月上旬に訪ねた。
 太布庵では、阿波太布製造技法保存伝承会の五名の女性の皆さんが、コウゾの樹皮から取り出した繊維を細く裂き、繋ぐ作業を行っていた。古くからこの地で続いてきたカジウミ(糸作り)である。
 伝承会の大沢善和会長は、かつてはカジと呼ぶ植物や、コウゾなど複数の植物から繊維を取りだしていた。そのためカジという言葉が各工程の作業に残っているという。1月の厳冬期に行ったカジ蒸しなどの写真も見せていただいた。
 「ヒュウジを山から採ってきて出すと男の学生服になって戻ってきた」と伝承会の中山アイ子さんが語った。戦時中のことで記憶している、という。ヒュウジとは苧麻(カラムシ)の木頭での呼び名である。
 私は福島県奥会津の昭和村に暮らし、古くから伝承されてきたカラムシという植物を畑に育て、妻がそれを繊維にして糸を作り、布を織っているが販売はしない。カスミソウ栽培専業農家として生計を立て、カラムシの作業はお金には換えない基層文化の伝承のためのものである。
 阿波の太布を継承する皆さんの話からは、土地でかつて行われてきたものには、大切な意味があると、強い意志を持っていることが感じられ感銘を覚えた。


(註2)出原に住む安岡岩樹氏(昭和四四年当時 八十一歳)は父、米治につれられて高知県安芸郡から木頭に転住し、二十三歳から四十八歳まで約二十五年の間、馬子を専業としていた(岡田一郎氏の昭和四十四年八月一日から七日まで木頭村で阿波学会の総合学術調査)。


2016年4月調査 木頭の太布



コウゾの脇芽欠き

穀類を入れる袋(太布製)



2/21 奥会津の藍、、、魚沼津南の藍染め記録

■2018年2月21日(水)雪のち曇り

 昨夜電話があった、会津田島の藍の栽培について、隣接する新潟県魚沼地域の津南町史で調べてみた。越後チジミの産地でも大量に農家が藍を栽培している。
 すぐに藍玉を作るのではなく、冬の雑菌の少ない時期に、動物(牛馬)のいる場所の上で発酵作業をする。

 生活のための布を → からむし冬の視察 大芦  

■ 2月15-16日、トルコギキョウ生産者交流会沖縄 → 湯田浩仁さんの報告

樋口さんから → 再ブレイク かすみ草(field flower)
   

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■ 染め苧(そ)


 新潟県十日町市の多田滋氏(1931年生)により調査された「民俗編」(『津南町史』資料編 下巻、新潟県津南町、一九八四年)のなかに、「染め苧(そ)」という項目がある(八二三頁から)。

 越後縮を織り出している新潟県の津南町域ではタデ科のアイ(藍)は「エー」と発音され、明治の初期までは盛んに栽培されていた。
 一八七二(明治五)年に津南町域の芦ヶ崎村で一五貫目、赤沢村七貫目、大井平五貫目・子種新田一〇貫目の藍を産出した(芦ヶ崎 大口茂太家文書「明治六年 土地産物書上帳」)。
 芦ヶ崎村では、その後、明治一〇年に二五二貫五〇〇匁、明治十一年に三百貫目、明治十二年に二七五貫目、明治十三年が七三貫目である(大口茂太家文書「物産取調帳」)。
 これらの藍は、一部は移出されたかもしれないが、近隣に営業する紺屋に主として供給され、充分にその需要を満たしていたものと見られる。

 島田の紺屋・上(うえ)の山(鈴木氏)の明治五年の例では、藍の買い入れ先は、巻下・島田・小岡・外丸・下船渡の各集落で、生産農家から直接買い取っている(小島 鈴木清四郎家文書「当申藍仕入方附込覚帳」)。
 この年、曹洞宗寺院・善玖(ぜんきゅう)院を含めて十五戸に及んでいた。一戸で二二貫目を売った家もあり、上の山の集荷はおびただしい量に達していた。
 右の紺屋の買い入れた藍には、「葉」と「粉」とが区別して記帳されているが、これらはそれぞれ「産物書上帳」の類にみえる「葉藍」と「粉藍」を略記したものに相違ない。前者は、刈り取った全草をそのまま乾燥させたものを、後者は、しごき取った葉を干し、揉んで粉にしたものを指すが、これらの呼称を古老の言葉で直接聞くことはすでに不可能である。
 藍の価格は、たとえば明治十年に「葉藍」一貫目が十六銭七厘とある(谷内 藤木駒治家文書「明治十年物産」)。
 明治三十八年、ドイツの化学染料の輸入が開始されるや、天然藍の相場は一時に暴落し、全国で藍関係者の没落が続いた。
 津南町域のアイ畑も、この影響で急速に転作されていったものと考えられ、存命の古老たちにも、栽培品のアイを実見した体験者は希である。中子・駒返り・辰ノ口では、それでも、大正期まで細々と栽培が続けられていたが、後二者は紺屋の営業していたムラである。ちなみに、前記の「葉藍」の運搬には馬が使われ、草刈りの場合に等しく、鞍の左右に三把ずつをつけて一ダンと数えていた。

 幸八どんという大きな紺屋も営業していた辰ノ口では、アイは明治三十年代まではありふれた作物で、一部は織り手の自家染めにも用いられていた。
 アイは、育苗ののち本圃に定植されたものである。花期は晩秋となるが、開花させると染料とする際に色が薄くなると考えられていて、早々とボンメー(盆前)に刈り入れられた。その後作には、ダイコンを播種することが慣わしであった。手でしごき取った葉は、莚(むしろ)に広げて乾燥させ、揉んで粉にしていた。

 次には、藍建てのことに移る。志久見川沿いの諸集落よりあまたの客を集めていた、栄村志久見の紺屋・はんにむ(石沢氏)の例では、同村小赤沢より前期の「葉藍」の状態で買い入れたものを、冬に入ってから、ンマヤ(厩)の二階に古莚を敷いてそのまま積み重ね、エーネセ(藍を寝かすこと)に取りかかった。
 少しずつ湯を注いでは重ねていき、最後にまた上から莚で覆う。その上にはワッツァバを何本ものせ、重石としておく。やがて藍が発酵して熱を帯びてくると、エーッケーシ(藍返し)といって、湯を加えつつ上下を入れ替え、手でこね回した。これを一ヶ月の間に三度反復すると、エーネセは終了した。臼(うす)で搗(つ)く工程は、ここには存在しなかった。こうしてどろどろになったものを手で丸めるのがエーダマコシャイ(藍玉拵え)で、できたエーダマは乾燥させて保存しておいた。

 藍建てには、川からアサミズ(早朝の水)を汲んできて、ヒラガマに沸かし、カタテオケでエーガメ(藍甕)に組み込んではエーダマを溶いた。藍の建て方は、ジロ(いろり)の木灰を用いた古来のあく建てであったが(紺屋の帳簿に山あくの購入が記載されている)、その委細はもはや知れない。冬季には、エーガメの脇にうがった穴の中で、常時コビキノカ(おが屑)を燃やしておき、ふたをしたエーガメの染液を保温した。ソメソ(染め苧)を進める合間に、長いエーカキボーで染液を掻き回し、泡となって浮かぶ藍花の様子でその建ち具合・疲れ具合を調べては、適宜エーダマを加えていった。エーガメの底にはエーノドロがたまるが、田植えに先立ってこれは肥料として水田に入れた。多量に施すと効き過ぎて、実った稲が倒伏するほどであった。

  ソメソ(染め苧)、すなわち苧(からむし)の染色は、タテ(タテイト)・ノキ(ヨコイト)を共に撚り、カセにかけてから外して束ね、かくしてオガセになったものを、タテは灰汁で煮て雪上に晒したのち、またノキは通例そのままで、一反分に揃えて紺屋へと持ち込むものであった。一方、これとは別にノキのみをツヅネの段階でまず染め上げてしまい、そのあとから撚ってカセにかけるという流儀があった。これは地域差で、前者は遍く津南町一円に、後者は樽田のみに、それぞれ行われていた。
 樽田の紺屋・おやけ(丸山氏)では、染めたツヅネをボテに広げ、オガセの方は竹竿にかけて乾かしていた。ツヅネの染めを先行させる限り、ノキの方は、煮て晒すという工程を一切経過しないこととなる。しかしながら、この方式を採らなかった地域でも、撚ってカセにかけたノキを煮ることも晒すこともしなかった例は数多いので、この工程順の差異は深い意味を有するとは感じられない。
  紺屋の古い勘定帳簿類によれば、昔のソメソの注文は、一定の単位によらず、持ち込みの都度、一々秤量されていた。近代に移る頃から、縮一反分を単位にタテ・ノキを揃えて持ち込むのが定法となり、紺屋の染め賃もこの方式で協定されるようになった。績み手により苧の品質により、一ナワとして等量のもののないオガセではあるが、秤量することなしに均一の染め賃を受け取ることになっていたものである。
 染め賃は、借り置いて縮が売れてから清算するのが慣いで、年が改まっても勘定のこげついている例が、帳簿類にはかなり見える。羽倉の紺屋・松坂屋(久保田氏)などは、貸し倒れがかさんで廃業に追い込まれたとさえいわれている。

 染色を必要としない白布の織り続けられた記録上の下限は、一六九二(元禄五)年である。同年の寺石村よりの書き上げに、従来の白布と新興の縮とが、ある期間並行して生産されていたことが判明する。縮の色柄については、その寛文期における出現後、約一三〇年間の事情が空白となっている。草創期の寺石村の縮は、染めない白縮、もしくは天然染料によって自家染めした製品であったように推測される。
 紺屋の勘定帳簿として伝わる最古の一冊は、樽田・南の一七九六(寛政八)年の「大福染物覚帳」である。これに見えるこの店の顧客は、外丸・上野・小池・穴山・寺石・羽倉・中尾(現在の松之山町、以下同じ)・天水越・湯本・浦田口という広範囲から訪れていて、当時、この職種を営む者の稀少であったさまをうかがわせる。
 寛政期をくだっても、紺屋を皆無とする報告する村々は跡を絶たず、紺屋が乱立して一集落に二店を数えるところさえ稀ではなかった明治期の盛業ぶりには、およそほど遠いものがあった。
 一八二五(文政十)年に成った『秋山紀行』は、ほぼ現在の津南町に相当すると考えられる上妻有という呼称を用いて、ここに営業する紺屋についての結東村庄屋・滝沢太右衛門のことばを書きとどめている。この七十九翁は、鈴木牧之の問いに答えて、
「古くからの店は上妻有広しといえども田中(おもや、現在の清水礼次郎家を指す))の一軒のみで、近年ようやく店の数も増加してきた」と、決定的な証言を行った。
 町域における紺屋の発生はかなり新しく、かつその数も江戸中期までは甚だ限られていたものと断じて過たないであろう(幕末に至り、紺屋の数は急激に増加してきた。一八六四(文久四)年の例では外丸村一村に一〇店が営業している)。ちなみに明治十八年に谷内村で紺屋を営んでいた五軒のうち、商いの額の最低であった二店は、オガセの上紺染めに換算してそれぞれ四反分・八反分の収入しか得ていない。時代を遡るにつれて、この地域の紺屋の営業規模はおしなべてかような零細さに近づいていくのではなかろうか。

 紺屋に依託してなされる本格的なソメソをコーヤゾメといい、それに対して、エーゾメ(藍染め)意外の染法をも含む小規模な自家染めをテメーゾメ(手前染め)という。
 テメーゾメは、ミッツブシ(ケシ科のタケニグサの全草)・キワダノカワ(ミカン科のキハダの樹皮)・クルミノカワ(クルミ科のオニグルミの樹皮)・クロマメなどを煮出した煎汁による染め方をも駆使するもので、紺屋の営業するものの少なかった時代には、ソメソの主流をなしていたものかと察せられる(十日町市内各地の神社に伝わる江戸後期の縮の奉納旗多数の染法の調査によれば、藍以外にも、キハダ・タマネギ・小豆・黒豆・漆・茜・柿渋・ヨモギ・紅花・カリヤスなどの多彩な天然の染材が駆使されている)。
 辰ノ口には、ムラに大きい紺屋があったにもかかわらず、自家生産の藍でオガセにテメーゾメを施すものが大勢残っており、この伝統は明治末期まで続いていた。紺にテメーゾメしたオガセは、縮に織って商人に売り渡されたもので、キヨー(自家で着用する)のカタビラとなったわけではない。
 樋口カクの流儀では、扱いて干し、揉んで粉末にしたエー葉(藍葉)を、ソラ(屋根裏)に敷いたミシロ(莚)の上で水を注いでネセ(発酵させ)、悪臭を放ってべたべたになってくると、広げて乾燥させておいた。これをニワの土間に首まで埋め込まれた、一石二斗入のエーガメ(藍甕)にダス(建てる)ものであった。この染液では、オガセ以外に唐糸(とういと)をも染め、機に織っていた。オガセのイロアゲ(すでに染まったものに、さらに濃く色を重ねること)には、よりよく建っている染液に浸さねばならないため、エーガメの本数は最小限度二本を必要とした。染めた唐糸で織った綿布は、ヤマギモン(野良着)などに縫い上げられた。以上は辰ノ口のテメーゾメの実態であったが、このムラのみに限らず、エーガメを二本や三本保有する家はありふれており、これまたテメーゾメ盛時の名残であった。明治期に穴山の小池道(高波氏)が紺屋を開業した折には、上田小池の農家から古物の瓶(甕)を譲り受けたものである。

   多田滋氏は別書『越後縮の生産をめぐる生活誌』(十日町市博物館、一九九八年、一五三頁)でも次のように記している。
 明治初期の十日町市域各地の「産物書上帳」の類には、少なからぬ量の「葉藍」の産出が記録されている。「藍葉」と書かれている資料もある。言うまでもなく、タデ科の一年草のアイを夏に刈り取って乾燥させたものである。また「粉藍」ともあり、干したものをさらに粉末にする場合があったことが分かる。一例を挙げるならば、明治七年の高島のムラ全体での「葉藍」の生産量は一二五貫目に達し、三一二円五〇銭で販売されている。
 こうした「葉藍」は、最寄りのムラやマチの紺屋に供給されて、徳島県からの藍玉の移入量を抑えるのに役だったであろう。新水のある紺屋で明治十一年に消費された「葉藍」は百五十貫目に上っている。アイの栽培は、明治末期になってもまだ細々と続いていた。大小二品種あり、小形の方はタデアイ、大形の方は単にアイと呼ばれていた(樽沢)。高島の紺屋では、会津まで藍玉を買いに行ったことがあるという(『十日町市史』資料編八民俗)。



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■ 2017年の奥会津・大岐の藍(タデアイ)栽培の記録(標高730m)

  4月10日にプラグトレーに播種したものが種子の問題で発芽せず、5月6日に種子をかえて播いた。名古屋のフクカエン種苗から購入した種子(タデアイ)。


タデアイの種子

128穴のプラグトレー4枚に播種。512穴。1000粒。
かすみ草の苗が
入ってきているものの再利用。
1穴に2粒ていど

5月6日播種

灌水後、乾燥しないよう新聞紙を掛けて、
その新聞紙の上からも灌水をする





5月29日に畑に直まきした畝。

5月6日播種プラグ苗を、定植5月29日。
定植後、灌水し、植え穴には
モミガラクンタンを置く(マルチ)


除草の手間を省くため、ビニルマルチをした。
また畝間には前年に刈り取ったススキを敷いた。
大岐の岩下(上)圃場。
右のハウスはかすみ草マイピンク

6月30日
定植後、約1ヶ月。
右の1畝は播種後、1ヶ月。

タデアイは移植栽培が良い

定植後、約80日後ほどで収穫可能。

収穫 8月25日


匍匐枝(ランナー)で伸びる


茎から葉を取り集める


葉を水に浸す

重石をして数日置く

消石灰を入れ撹拌すると泥藍が沈殿する



泥藍を漉した布は藍色に染まっている

泥藍は冷蔵庫で保管

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2017年12月6日 石垣島

 木藍(きあい)も栽培。

南島(無霜地帯)の樹木のアイ

ナンバンコマツナギ(小浜島等でも栽培)

タイワンコマツナギ

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リュウキュウアイ(キツネノマゴ科)
 インドアイ(マメ科)
 タデアイ(タデ科)
 沖縄県本部町山里 比嘉藍製造所
 栃木県鹿沼市 タデアイ(小上粉)

2/20 クサカジ(太布)

■2月20日夜、奥会津博物館の渡部康人さんから電話があった。沼沢氏(山内氏)の件と、田島の染め屋文書について(藍染め)。南会津郡内の木伏、芦野原、高野等、藍の生産が行われ藍等が購入された記録が確認された。
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■ 福島市の高橋八重子氏は『藍のいのち』(一九九五年)の「阿波の太布」に詳述している。
 太布の原料は、フジ・アサなども使うところがあったといわれているが、木頭で使用されていたのは楮(こうぞ)と穀(かじ)である。楮も穀も桑科の植物であり、外観が似ているうえに、どちらも太布の原料として古くから利用されていたので、一括してカジと呼ばれている。
 そのうち楮の方は藩政(江戸)時代にはカミソ(紙素)の木として紙奉行の下に統括されており栽培に上納を強制されていた。植える場所は田や畑のあぜや石垣の上で一列に並んで独特の景観を見せていたという。一般に木が小さいのでコカジとも呼ばれたが、ふつうの呼び名はニカジである。
 皮を剥ぐとき煮る(蒸す)からである。穀は山野に自生するものを利用する。刈り取った木は天日に乾かして生乾きの状態で皮を剥ぐ。ニカジとの大差は蒸す工程のないことであるが、剥ぐ方向も反対で、こちらは末から元の方へ一本を三枚くらいに剥いでいく。呼び名のクサカジは、草のように自生するカジの意であり、別名のマカジは、この木が本来の穀の木である。マカジの方が太布にした場合緻密な上質の製品であるが、製紙までの手順がめんどうなため現在は行われていない。現在行われているのは楮(ニカジ)である。

  ①楮を切り取る
 時期は葉の落ちた十二月頃から一月頃、なるべく枝が少なく傷のない真直ぐなものを選ぶ。木は先端まで傷つけないように気をつけて、なるべく長く根株近くを切る。その要領は切る部分をたわめるようにして鋭利な鎌を当て一気に切り取る。

 ②集荷と保存
 切り取った楮は手ごろな小束にして蒸し場へ運ぶ。切り取ったものはすぐに蒸すのがよいが、日数がかかるときは、切り口を谷川などの水につけ水分を吸収させておく。

 ③皮を剥ぐ
 ニカジは名の通り煮て(蒸して)から皮を剥ぐ。このとき原料も用具も和紙の原料であるカミソと同じであるが異なる部分がある。
 カミソは楮の両端を裁断して蒸すが、太布用には長いままで蒸し、剥ぐときカミソは丁寧に、太布用は乱暴に行なうことである。太布ではなるべく長い繊維を必要とし表面の黒皮を邪魔者とするし、出荷するカミソは商品価値の外観を考えるからである。
 口径一メートルのハタソリと呼ぶ大釜に湯をわかし、口径約八〇センチ、深さ約一メートル五〇センチのコシキをかぶせて楮を蒸す。楮はコシキの内径に合わせた大束にし、長さもコシキに合わせる。長すぎるものは先端を曲げるが、火にあぶったり熱湯につけて、なるべく傷つけないように曲げておく。湯気を逃がさないようにコシキと釜の隔間にはワラ束をつめて、かまどの火を勢いよく燃やす。二時間程沸かすと独特のよい匂いが漂いはじめる。コシキを少し起こしてのぞくと、水の元の皮が縮み木肌が白く見える。この皮のちぢみ加減から蒸し上がりを判断してコシキを吊り上げる。すぐにバケツで冷水を均等にかけて急冷すると剥ぎやすくなる。
 釜から降ろすとすぐに皮を剥ぐ。剥ぎ方は元の方から梢端部に向けてこそげ採るように剥ぐ。力のあるものは木の又にかけて数本を一度に剥ぐ。ニカワ(表皮の黒い部分)がなるべくとれるようにむくと都合がよい。

 ④材料の精白
 剥いだ皮のままでは色が黒く、材質で硬くて、糸にならないので煮る、叩くなどして化学的、物理的な処理を施して、白く柔らかくなる材料にする。
 剥いで小束にした楮皮は、すぐに灰水で煮る。灰は広葉樹から取ったものを用い、湯の二斗(約三六リットル)に一升五合(約二.七リットル)程度の割合に灰水を作る。灰水を大釜で炊き適度の楮皮を入れて煮る。火の強さや楮皮の量にもよるが約二時間で煮あがる。煮沸時間が長すぎたり、灰汁の濃度が濃すぎると繊維がとけてなくなる恐れがあるので注意が必要である。煮加減を見るには一部取り出して引き広げて繊維の網目になる状態を見る。
 煮上がると、まず楮皮の太い方の端を木槌で叩きつぶす。ついで、オニカワと呼ぶ表皮の黒い部分をはがす作業をする。籾がらをまぶして、足でもむようにして踏む。終わると流水でオニカワや籾がらを洗い流し、そのまま流水につけ、重石をして一昼夜おく。
 流水から揚げた楮皮は、陽当たりの悪い野原にひろげて、三昼夜ほど表裏を返しながら凍らせる。この感に雨が降ると汚点がつくので、雨にぬらさないように気をつける。よく凍るほど繊維が柔らかくなるので、この工程は重要である。次はこれを小束にして軒下の竿にかけて乾燥する。
 乾燥した楮皮は膠質の作用でカチカチに固まっているので、むしろの上で木槌で叩いたり、足でよく揉んで柔らかくする。元の方は特にていねいにするが、叩きすぎて繊維を切らないように注意する。
 図十五のキャプション(注記)に、荒妙用は鬼皮(外皮)の付いたまま使用し、白妙用は鬼皮を刃物や石で剥ぎ取って干す。




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 ひろいのぶこ氏・長野五郎氏『織物の原風景-樹皮と草皮の布と機-』(紫紅社、一九九九年)の木頭の太布の工程での、皮剥ぎのカジノキの項目については次のように記している。
  この調査は一九八〇年、一九八九年に行われ、曾根石男氏(一九一二年生)・曾根啓氏(一九一六年生)・榊野アサ氏(一八八九年生)・仁木ダイ氏(一八八九年生)・丸山セツコ氏(一九二八年生)の話を聞き、『紡織習俗Ⅰ』等の文献も参照している。
 木頭ではコウゾをニカジ、カジノキをクサカジまたはマカジと呼ぶ。

 コウゾとカジノキで方法が違う。カジノキの皮剥ぎは、庭先に蓆(むしろ)を敷いて座り作業をする。伐採の時期はコウゾと同じだが、幹の太さはコウゾよりやや太めのものがよい。刈り取ったカジノキは日当たりのよい場所で干す。乾燥した幹の鬼皮(表皮の外側の外皮)を、切れ味の鈍くなった古鎌の刃であらく削り落とす。削ったところと削っていないところが縦縞に見える程度に削ればよい。

 幹の根元の端を右膝で押さえつけ、左膝に幹の末の方をのせてたわめ、末の方から元へ向けて皮を剥ぐ。古鎌で皮に幅三センチくらいの切り口をつけて、五センチほど剥ぎ、それを右手に握って引っ張り、左手でで皮に対して直角に幹を押し下げる剥ぎやすい。こうして少しずつ剥いだ皮は、元は元ばかり、末の端は末方向に揃えて、一握りの量になったら、元の端から四~五寸(約一二~一五センチ)のところを、そのうちの一本の皮でしばって束ねる。これを軒下の竿竹にかけて陰干しにする。

  皮を剥ぎ取ったあとの木質部をカジガラといい、このカジガラを長さ約三〇センチに切って縦に半分に割り、ヘラのようなものを作る。陰干しにした皮の束をほどいて、これをあてがって一本ずつ残っている鬼皮を一〇センチほどこすり落とす。次にここを左手に握りこんで、元から末の方へ鬼皮を扱き落とす。そして、繊維を裂いたり糸作りがしやすいように、これを平らな石の上か、木の台の上に置いて木槌でまんべんなく打って柔らかくする。最後にカマスを敷いてその上に置き、素足で踏んでより柔らかくしておく。この作業を「カジをコナス」と呼んでいる(一九七頁)。

 コウゾは蒸してから皮を剥ぐ。灰汁煮したコウゾの皮が絡み合わないように籾殻をまぶし付け、カマスを敷いた上に置いて素足で踏む。これを川へ運び、流れに沿って元の端を川上にして並べ、流されないように重石をして一昼夜浸けておく。灰汁・籾殻・鬼皮も流水に流されてコウゾは白くなる。
 翌日、川から引き上げたコウゾは、寒夜を選んで日当たりの悪い田や野に数日間並べて凍結させる。平均して凍結するように束の上下を時々返す。雨に当てるとアマグラ(染み)がつくので、雨に当てないように木を浸ける。もし気温が下がらず凍り方が不十分なら、夜に熱湯を準備し、束をくぐらせて十分に水分を吸収させたあと、再び凍らせる。水分は、繊維と繊維の隙間に入ったあと凍結して膨張する。それによって繊維束の組織が部分的に崩され、柔軟性を増す。十分に凍結させておかないと繊維は固くてあとの工程の作業もしにくく、しなやかな布とならない。このあと竿竹にコウゾの束をかけ、日光に当てて乾燥させる(一九八頁)。


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■ → 2017年4月4日 木頭の太布

 → 4月4日 木頭の太布 のりづけ





2/20 奄美の芭蕉 クダ。 煮ないで処理もあった。台湾の香蕉糸。台湾クバラン族の香蕉糸。

■2018年2月20日(火)曇り

 静養。21日の上京・MPS参加者ネットワーク会合は欠席。
 
 
■奄美の芭蕉のクダ

 文化庁編『民俗資料選集一〇 紡織習俗Ⅱ』(一九八一年)では鹿児島県の奄美大島の芭蕉布の事例が記載されている。
  一七九九(寛政十一)年の記録では、衣は芭蕉布であり、からむしなどを畑に植えている。
 一八五〇(嘉永三)年の名越源太編『南島雑話』には、「芭蕉一本で上中下の三段があり、真心の火吹き竹の大きさくらいの部分は、衣類には使用できないが、食用にはする。この真心より外の方を上位として、その外側を中位とし、そのまた外を下位とする。上位の部分はそのまま製するが、そのほかは煮て製する。製法は灰で煮て水につけておく。そして柔らかくしたものを割り竹ですごき、日に干しておいて糸にする」とある。
 中心部に近い上位の部分は、生のまま製することが記載されている。
  煮る灰はソテツ葉・ケダギという木のウドウル(小枝の薪)などを燃やした白灰が良いといわれている。



  「バシャシキ」(芭蕉すき)は、クダという竹製用具で、煮た芭蕉の皮をすき雑物を取り除いて、繊維質だけにする作業である。
 クダの用意は主に男性の仕事で、かなりの技術を要する。まずデーといわれる青竹の節なしの部分を二四センチほどに切りとる。それを半分に割り、接合部を削りとり、重ねてかみ合わせて仕上げる。長さは二二センチになる。歯をうまくかみ合うように制作する。



 バシャシキは冷えないうちがよいといわれ、煮え上がるとまもなく始める。まず煮た皮を一・五センチくらいの細めの幅に引き裂き、表(つるつるして雑物のついていない側)の部分を上にして、左手でやや中央部を滑らないように持ち、その手もとの部分をクダの歯ではさみ、一気に上から下へとすいていく。これを二度ほどすると、完全に繊維質だけの半透明のものになる。上手な人は一度でもきれいになった。こうして次は上下を持ちかえて残り半分をすいていく。
 すいたヴ(糸の繊維・苧(お)のこと)は根をそろえて、ざるやバラ(竹製のかご)などの容器に入れ、ある程度の量になるとさおにかけて陰干しにされる。一日ほどでよく乾燥する。このようにしてバシャシキは、一日一人で一斤くらい(約六〇〇グラム)はすけたという。四ヒロノーレ(ひろ半)の布はタテイト一斤、ヨコイト一斤、計二斤を要したという(九四頁)。
 人が亡くなって埋葬してから、三日目にミキャワカレ(三日別れ)という儀式が行われるが、このときにも芭蕉糸が使われる。この日、近親の女性三人が料理とともに膳に供えられた三本の芭蕉糸を、その料理を食べ終わったのち、それぞれ一本ずつ持って特定の三差路に行き、無言のまま、その糸をそこに捨てて、各自の家に帰ってくるというものである。これは霊との別れをするためで、芭蕉を霊の依代(よりしろ)と考えたものであろう。これも、女性によって行われるのは意味あることかと思う、、、としている(一四〇頁)。
 古くは、着物は単に寒さをしのぐものだけではなく、悪霊から体を守ったり、人の寿命や、霊魂を左右する不思議な力を持つ霊的な存在でもあった。それだけに、着物の裁断や着始めには、いろいろな禁忌や信仰がまつわりついている。
  古くは死人の肌着はすべて芭蕉着で、そのときのための新品が用意されているのが普通であった。
  また幼児が死んだときには、藍染めした色芭蕉着を棺にかぶせて送って行った。

 台湾の事例では、
 ルカイ族の喪服はからむしで織ったものであり、中央山地にあるカリアラという祖先の発祥地の付近を通る時には、からむしで織った白装束を身につけていなければ、神の怒りに触れていると信じられていた(台北帝大、一九八八)。
 パイワン族でも埋葬の時に死者を包む布は白からむしの布であったと言われることを考えると、この種の布が古来からの正装であったことがわかる。





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■ひろいのぶこ氏・長野五郎氏『織物の原風景-樹皮と草皮の布と機-』(紫紅社、一九九九年)では沖縄県八重山の竹富島のバショウ布のことが記されている。一年に一~三度、偽茎を高さ一・五メートルほどで切り落とすスラ打ちをする。そうして管理した三年目の糸バショウを使う。外側の皮は固いので経糸(タテイト)用に、内側の皮は柔らかいので緯糸(ヨコイト)用に分ける。糸にする前には煮ずに、生のまま乾燥させておき、糸に績む前に使う分だけのバショウを水に浸けて柔らかくして、糸にして織り上げ、最後に煮る方法が以前は取られていて、こちらの方が丈夫な布ができるといわれている(二二八・三〇七頁)。

 バショウ布は竹富島・西表島でも作られており、喜如嘉と異なるのは、糸作りで機結びにしないでバショウ糸を績んでいることである(二二九頁)。

 鹿児島県奄美の徳之島では、灰汁でバショウを煮る。その場でコキバシを長大にしたのような「クダ」と呼ぶ道具でバショウを挟んで、元から末へしごいて繊維だけにする。

  またフィリピンのミンダナオ島のバショウ科の繊維を利用したアバカ布についても記載がある。台湾でもバショウ科の繊維を利用しており、それは後述する。
コキバシ



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■台湾のガマラン族の香蕉糸
  二〇一六年十一月二〇日、台湾の花連県のガマラン族の芭蕉糸の工房売店を訪問した。同地の馬芬妹さんの案内である。花連市から自動車で十一号海岸公路(道路)沿いに南下し、豊濱郷の新社地区に工房売店はあった。

 香蕉と呼ぶ糸芭蕉に似ている植物の仮茎を伐り剥いで利用している。金属製の刃物で繊維を取り出し乾燥させ、その後水に数日浸けて洗い、乾燥させる。


香蕉糸 台湾(2016-11-20菅家撮影)









台湾クバラン族の香蕉布の穀物袋


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徳島県木頭の太布の穀物袋
2016年4月撮影