小野晃嗣「三条西家と越後青苧座の活動」『日本中世商業史の研究』(法政大学出版会、1989)

■2018年1月25日(木)雪。

 小野晃嗣氏は1904年岡山県生まれ。1928年3月東京帝国大学文学部国史学科卒。1942年に39歳で死去。
 小野晃嗣氏は中世のからむし(青苧)流通に関する「三条西家の越後青苧座の活動」を『歴史地理』第63巻第2号(1934年2月)に投稿された。この論文は、からむし(青苧)流通に関する論文では必ず引用されるものである。


 1989年に法政大学出版局から『日本中世商業史の研究』が刊行されたが、これには1932~1937年に学会誌に発表された小野晃嗣氏の8篇の論文が収録されており、「三条西家の越後青苧座の活動」も収録されている。解説は網野善彦氏。


「三条西家の越後青苧座の活動」  昭和9年(1934)のこの論文発表以後の学会動向について網野善彦氏は次のように解説している。
 
 著者の小野氏は、越後から海津、戸津、天王寺にいたる苧の輸送、流通経路にふれた上で、三条西家の青苧座に対する支配が荘園とは全く無関係の、苧課役の知行に起源を持っていること、それ故、越後の青苧座のみならず坂本、京都諸口、美濃、丹波などと苧関として苧公事が徴収され、苧課役は甲斐・信濃にも及んでいたこと、その三条西家の経済の中で占めた比重などを的確に解明している。
 これ以後、青苧座については、豊田武、脇田晴子、佐々木銀弥などの諸氏をはじめ言及した論文は多いが、基本的には小野氏の論旨を大きくこえていない、といわなくてはならない。この苧課役が、仁治元年(1240)閏10月3日、造酒司解(『平戸記』)にみえる装束司が市(いち)の苧売買の輩から徴収した上文となんらかのつながりのあることは間違いないが、それが三条西家の手中に入るまでの経緯は、小野氏も保留しているように、未だ解明されていないのである。

 以上が網野善彦氏の本論文に関する解説である。

 さて、内容を一読してみると、まず冒頭に、苧(からむし)は繊維の摘出方法ならびに精製の差に応じて種々なる名称をもってよばれた。中世文献に於いては皮剥苧(かわはぎそ)・白苧(気比宮社伝旧記上所載、建暦2年9月日文書)、綱苧(つなそ、高野山文書)、青苧等の称を見出すとしている。
 そのなかで『越後略風土記』七には越後地方に行ける苧の製作法について引用しているが、この文献がを読むと、煮苧・白苧・青苧・綱苧とも、種子を播いて育てるとあり、これはアサ(麻)の栽培のことであり、からむし(青苧)ではないことがわかる。
 「春の土用に種蒔、夏の土用に引取、根を切捨て日に乾し、夜気よき時には夜晒しにして、青色の去りし時に、茎の肥大に直なる上を金引きとし、茎の不レ大長き上を煮苧とし、其次を白苧とし各撰て品定めして製上る事也」
 「白苧ハ茎に青草をかけ、ふせ黄て水を灌き柔きたるときに其儘剥引きたる也」
 「種子取し麻を十月青きままに草を掩ひ、水を灌き剥引しを青苧とし、綱麻といふ」

 このアサの加工を細別している『越後略風土記』はどのような書籍でいつ発刊されたのかが不明である。

 さて、そのことを除けば、書かれている内容については、以後の研究者による判断に委ねるが、このからむしとアサの違いを指摘する研究者が存在していない。
 現場では、からむしとアサは判断されていたと思われるが、こうした苧(を)とは植物繊維の束原料(半加工品)の総称であるので、区別しなくともよいのかもしれない。
 しかしアサ原麻(麻苧、あさを。大麻繊維)も、三条西家の取締に該当したのか、等、課題は残る。

 近世にからむし(青苧)が鯨捕網の原料となり大量に西海捕鯨組に購入されるが、それにもアサ(大麻繊維)が混入されていると考えられる。